●♪♪Trust You're Truth 〜五助と仁右衛門〜●




Trust〜♪♪ 大谷吉継へのプロローグ
 慶長5年(1600年)9月15日の夕暮れ近く。
 ここは関ヶ原の西南、山中村の村はずれ。 軍馬のいななき、人々の喊声(かんせい=ときの声)、鉄砲の号砲とが折り重なり、ゴーゴーと絶え間なくそして遠く近く、四方の山々にこだましていた。
 さらに、硝煙のきな臭さに加え血の匂いも混ざり、 息も詰まるような生暖かい風が、西からも東からも吹いてくるのである。

 そんな中、バシャ・バシャと水しぶきをあげながら背丈ほども伸びた葦原の中を、 南蛮胴の鎧に鉄鉢巻の一人の老武者が、 背を丸めながら一目散に、山際目指して駆け抜けて行くのであった。
 昨夜来より降り続いた雨は、 昼間は一時期やんだものの、夕闇せまるこの頃になると又しても黒雲に覆われ、シトシトと灰色の雨が重苦しく降り始めていた。
 その武者の左肩には、泥まみれとなった”大”の合印が無造作にくくられていた。
 さらに、雨と泥、涙と鼻水で顔は、くしゃくしゃ・・・・
 時々よろよろと、よろけながら・・・・
 やがて、一本の古老の松にたどり着くと、
「オッー、ここらで、よかろう。」
 と低く声を上げ、ガクリと膝を折って、座り込んだのである。
 よくよく見れば、小脇に抱えた泥まみれの陣羽織に包んだ何かを、うやうやしくおし抱(いだ)きながらそっと松の根方におくと、 脇差を抜いてなにやら、松の根元を掘り返し始めたのであった。

 やがて、そこへ長槍を小脇に抱えた兜武者が、三人の屈強な足軽を従え颯爽と馬で通りかかるのである。
 突然、よく通る野太い声が、あたりに響き渡った。
「ヤーヤー、そこな武者は、誰か! 敵か、味方か? 面を見せろ! 
それがしは、藤堂高虎が家臣 藤堂仁右衛門(にえもん)なり。そなたも名を名乗れ!」

 長槍の足軽がさっと、その老武者を取り囲むと、次々に問いかけるのである。
「・・・・やや! その肩の合印は !?」
「・・・大谷勢の手のものか ?」 (”大”は大谷勢の合印) 
「ここで・・何をしておる?」
 そんな声が、聞こえたのか聞こえぬのか、やがて老武者は座ったまま、おもむろに向き直ると、

「これは、藤堂仁右衛門殿か!? 久しぶりでござるな、・・・ 五助でござるよ。」
 と、老武者は、真っ黒な顔に目だけをキラキラさせて、兜武者を見上げるのである。
「オッオッー! そなたは、五助! 湯浅五助ではないか!?」
 と、言うなり馬から跳び降り、懐かしさのあまりか、
 なぜそこに五助がいるのか、
 しばし槍を構えるのも忘れ立ち尽くすのである。
 そして、しだいに声を低めながら、
「五助!  一人か? ・・・そなたは、  大谷殿の従者  で は な い のか ・・・?」
 
 五助とは、湯浅五助。 西軍 敦賀五万石の大名 大谷吉継の長年の従者であり、 偶然にも藤堂仁右衛門とは、お互い旧知の仲であった。
 又、五助は、”鬼の五助” と異名を持つ、他家にも知られた豪力無双の槍の使い手でもあった。
 一方、藤堂仁右衛門は、東軍の伊予板島八万石の大名 藤堂高虎の甥である。
 藤堂勢と大谷勢とは、つい先ほどまで敵同士。 共に死闘を繰り返していたのであったが、小早川勢の裏切り により、大谷勢等西軍は、そのほとんどが全滅したのであった。 その他石田勢、宇喜多勢等、西軍諸将も早々に崩れだし、蜘蛛の子を散らすかのように戦場を落ちて行き、西軍の敗退が決したころのことであった。
 時は止まり・・・しばしの静寂が・・・・。


 やがて、仁右衛門は、はっと何かに気づいたのか大声で・・・
「五助、今しがた松の根元で何をしておった?  もしや・・・、何かを埋めておったのではあるまいか・・・。
あれは何か?・・・ もしや・・・? 松の根元には、何があるのか?!」


「見られてしもうたか・・・・。」
 と、五助は、低くつぶやいた。

 そして、五助は、意を決したように凛として答えるには、
「いかにも、今しがた松の根元に埋めたのは、我が 主人 大谷吉継が身印でござる。 主人は、今しがた、それがしの介錯で、腹十文字にかっさばいたところでござる。
 最後に主人が言うには・・・[我が身は、病に犯され目も見えず、 今や全身の肉も崩れだし醜い面容となった。  この首を敵にさらすは、恥辱である。
 この首だけは、敵に渡すでないぞ。 よいか五助!!]
と、いうものであった。」

 さらに、五助が涙ながらに言うには、
「藤堂殿、武士の情けでござる。 主人の首だけは、見逃してはくれまいか。 そのかわり、我が首を打って手柄にしてくれ!」


「湯浅殿、武士の情けと言われるか、そうか・・・そうだったのか!  ここで、それがしと出会ったのも何かの縁・・・
 ならば、この藤堂仁右衛門が請け合った。 決してこのこと、他言は致さぬゆえ・・・  いざ、尋常に勝負! 誰か、湯浅殿に槍を!」


 足軽から槍を受け取った五助は、シュッシュッと、ニ三度槍をしごくと、 どっと腰を落とし、キラリと目を輝かせると、槍の穂先をピタリと仁右衛門の喉笛に合わせたのである。


 突然、人が変わったのかのように不敵な笑みを浮かべると五助は、
「抜かったな、仁右衛門! 我れが槍を持ったなら、お主等ごとき四人や五人、 我が敵にあらず。・・・いざ、参るぞ!」
 はっとする仁右衛門。
「何と? おのれ!・・・・」

 エイー、ヤッー、オッー、ヤッー、二人は、槍を合わせ、突いたり、 叩いたり、跳ね上げたりに加え、五助は、せり上げ、せり落とし、巻き返しに、ひざ車、 次々と槍技の秘儀を繰り出すと、終始五助が押し気味となるのである。
 やがて、五助は、仁右衛門を田んぼの畦(あぜ)迄追い込むと突然、上から叩くと見せかけて石鎚で仁右衛門の足をすくって倒すと、 槍を捨てて組討へと変わるのである。
二人は、まさに鬼の形相となり泥田の中を、上になったり下になったり・・・ 仁右衛門も奇声を発しながら、死にもの狂いで戦うのである。

 やがて、・・・ついに五助は、仁右衛門に組み敷かれ、討ち取られるのであった。

 五助の最後は、組み敷かれながらも片手拝みに、
「たのむ!」の一言であった。

 戦い終わって、仁右衛門は 全身汗びっしょり、ゼイゼイと肩で息をしながら、しばらくは立つ事もまま為らず、背中からは真っ白な湯気が煙のごとく立ち上がり、あらためて”鬼の五助”の凄味を知るのであった。

 気がつくと周りは、血のにおいに誘われ、死肉をあさる狼の群れ、 藤堂勢や小早川勢等十数人の雑兵どもが、固唾を呑んで遠巻きにしていたのだった。
 ・・・いつしか雨もやみ西の空だけ雲も晴れ、赤い夕日の中を、 まるで何事も無かったかのように、キラキラと無数の赤とんぼが群がっているのだった・・・。


 西軍諸将の行方探しもあり、いずれこの一件は、東軍諸将の知る所となるであろう。 仁右衛門は、主人藤堂高虎にことのすべてを打ち明けるとともに、すぐさま 五助の首を持って、徳川家康の本陣に出頭するのである。

 家康の本陣は、幾流もの「三つ葉葵」の軍旗が立ち並び、「欣求浄土 厭離穢土」(ごんぐじょうど・おんりえど)の軍旗と並び、 本陣を示す「金扇に日輪の馬印」が、ひときわ高く掲げられ、 誇らしげに天を仰いでいるさまが、遠くからでも良く見えるのであった。
 あたりを見渡せばあちらこちらで、雑兵たちが鎧を脱ぎ捨て、 大きな車座になり戦勝の美酒に酔い、かがり火の中、真っ黒な顔に白い歯だけをキラキラさせて、 踊る者有り歌う者有り、皆々戦という極限の緊張から解き放たれた喜びに満ち溢れていたのだった。
 しかし、仁右衛門は、そんな様子を横目に見ながら、ふとこうつぶやくのだった。
「この者たちは、いったい何をしたのか・・・? 先陣を勤め命懸けで戦ったのは、 我ら藤堂勢等、外様の兵ではないか・・・!」
 確かに、家康本陣は、戦勝に沸きかえっていたが、強敵大谷勢に苦しんだ藤堂勢の本陣は、ほとんどの者が負傷し、 半数近くのものが討ち死にしたのであった。 又、幸運にも生き残った者たちとて心底疲れ果て、皆々死んだように眠っていたのだった。
 さらに、仁右衛門は、 (今、この時に、わずか千人の軍勢の奇襲を受けたなら、 徳川勢一万も難なく打ち破られ、大将家康の首も討ち取られることであろうな・・・)と、ひとり囁くのであった。
 仁右衛門が、ふと空を見上げると、いつしか雲も去り、 きりりとした上弦の月が満天の夜空に輝いており、 あたりは、涼やかなそよ風が、しきりとほほをなでるのだった。


 家康公の御前にひれ伏した仁右衛門に、取り次ぎのものより、
「家康公は、仰せである。大谷吉継の首のありかを知っておるか。敵将の首であるぞ、申せ!

「知ってはおりますが、申せませぬ。五助との約束でござるゆえ
 もちろん、家康公の御前であっても仁右衛門は、堂々とこう言い放つのであった。

 さらに、仔細を問われたので仁右衛門は、前述のごとき経緯に加え、こう言うのである。

「今にして思えば、あの時五助は、それがしに、わざと敗れたのではあるまいか。  五助ほどの豪の者ならば、 槍一本でそれがしを倒し、さらに足軽三人を倒し、己の力で主人の首を守ることもできたはず。 五助の槍技は、遠く我のおよばぬところ、それはそれは、みごとな”槍さばき”でござった。 あの戦いの中おそらく、三度は五助の槍先は、我が喉笛を刺し貫いたはずでござった。
 五助と戦ってみて、それが良く分かったのでござる。
 今でも五助との戦いを思い出すと身震いし、全身汗が吹き出るのでござる。
 大谷殿の首を守ることと引き替えに、五助は、命を懸け、それがしが生かされたのではあるまいか。 全ては五助がそれがしを信じたからでござる。」

 と、さらに続けて仁右衛門は天を仰ぎながら、しみじみ語るには・・・。


「今頃、・・・五助は、あの世とやらで、目の見えぬ大谷殿が道に迷わぬように、・・・蓮のうてなか六道が辻を、手を引きながら・・・ 大谷殿の従者をしていることでございましょうな・・・・
 そんな五助を思う時、どうしていまさら五助を裏切る事ができましょうや・・・。今ここで、五助を裏切るなら、あの時に・・・・、
いっそ、出会ったあの時に・・・・、問答無用で五助に打ちかかるべきでございました・・・。 さすれば・・・、 おそらく・・・、 それがしは、・・・・」
 と、ぐぐっと膝頭を握りしめ、あふるる涙をぬぐいもせずに、じっとある一点をにらむのでした。


「それでも、・・・・・・・御大将は・・・?・・・・・・・」
 その時の仁右衛門は、あたかも怒天を着くかのような勇姿に輝いていたのでした。

 居並ぶ諸将も深く感じ入り又、家康公も目頭を押さえながら、
「よしよし、あい分かった。・・・・仁右衛門も五助も、あっぱれ、武士の鑑である。 さすがは、藤堂家の御一門。 高虎殿、よい家臣を持たれたな・・・!
”仁右衛門の仁義”と”五助の忠義”に免じて、大谷吉継が首は、あきらめよう。
 仁右衛門は、褒美に深紅の陣羽織を賜り、主人藤堂高虎も、大いに面目を保ったのでした。


 以来、藤堂仁右衛門は、大谷吉継の首のありかだけは、死ぬまで、誰にも言わぬのであった。
 ほどなく、藤堂高虎と藤堂仁右衛門は、関ヶ原に大谷吉継と 湯浅五助主従、二人の墓を建てたのでした。

 ・・・たぶん、完


(ちょっと解説)
 これは、プロローグではなく、エピローグではないかとの意見があるかもしれない。 しかし、これは、”関ヶ原の戦い”における、プロローグのなにものでもない。
 なぜなら、”関ヶ原の戦い”のキーワードは、”日和見、迷い、裏切り” などであろう。 そんな中、まったく正反対の、”己が信ずる者の為、又は、己を信じる者の為、一途に、 知略の限りを尽くしたもう一つの戦い”(もしかすると、”もう二つの戦いかな?”)が、あったのである。 物語として少々脚色しましたが、 ことのてん末は、ほとんど史実であろう・・・と、思います。

 最後に、藤堂仁右衛門等が、大谷吉継の”首のありか”を最後迄言わなかっただけでなく、後に、 大谷吉継と湯浅五助主従の墓まで建てたという、その意味は、何だと思いますか。
@もちろん、敵とはいえ、武士の意地で愚直に生きた主従への畏敬の念(あっぱれ、武士の鑑!)と、
Aもう一つ、日和見、裏切りの武将に対する批判、軽蔑の意味が込められているのかもしれませんよね。 藤堂高虎も、やりますよね。
 ・・・だから、”○○○○は、最後まで、○○を○○○ない”のですよね。
 裏切り者が出世したのでは、勝者、敗者に係わらず、最初から 真面目に命掛けで戦った者たちは、やってられませんよね。 特に、藤堂勢は、強敵大谷勢にさんざん苦しめられたのですから・・・。
 会社でもあるでしょ。こんなこと。藤堂高虎と仁右衛門の気持ち、さらには、五助の気持ちも分かりますよね!
 感想は、人によって違うでしょうが・・・面白かった?



大谷吉継は、なぜ石田三成に味方したのか?



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