●「桶狭間の戦い」は、奇跡の大逆転だったのか●
「桶狭間の戦い」の概略
永禄3年(1560年)尾張の国に激震が走った。
三河、遠江、駿河の"三ヶ国の太守"、"東海一の弓取り"と言われた、
今川義元が、およそ2万5千の大軍を率いて、5月15日駿府を立ち"上洛の途に付いた"という噂が、またたくまに近隣諸国を駆け巡ったのだ。
京への道には、まず尾張がある。
当時、織田信長は、
まだ尾張の半分しか統一していない。
しかも、兵力は、約3千、今川勢の約1/10の兵力であった。
信長、絶対絶命のピンチ。清洲城下は、
家財道具を荷車につんで、逃げ出す町民で溢れかえっていた。
さらに、歴史小説や大河ドラマでは、信長は、
軍議の席にも出席せずごろ寝をして日を送る。
重臣たちにも、"ろう城"か"出撃"か、(情報の漏洩を怖れてか)
その真意をはっきりさせなかった。
重臣たちは、「やはり"うつけ"の
殿であったのか!」と嘆くのであった。
そして5月19日の朝、「鷲津砦と丸根砦に今川方の先鋒、松平元康(後の徳川家康)などが攻撃を開始した。」
とか「鷲津砦と丸根砦、落城、○○様討ち死に」と、次々と"物見"の知らせが次々と届くのである。
すると突然、「出陣じゃ! 具足を持て! 貝を吹け!」
そして有名な、「人間五十年、
下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。
ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか。」と幸若舞の
「敦盛」を舞うのである。
そして、馬に乗り、「我につづけ!」
、初め従うもの数騎、熱田神宮に着くころには、
おいおい増えて、約二・三千の軍勢となるのである。
熱田神宮にて戦勝祈願、ここで社殿の上を白鷺が舞うと、
信長曰く、「吉兆なり! 必ずや神仏のご加護やあらん」
そして中島砦に向う途中、家臣の梁田正綱がはせ参じ、
「殿! ご注進! 今川義元の本隊、桶狭間で昼食中!」
急遽信長は、桶狭間へ向う。すると突然雷が鳴り、あたり一面篠つく雨、
この雨が本隊の進軍を隠し、無事桶狭間へ到着。
すると、うそのように雨は上がりあたり一帯に明かりが、信長、采配を振りかざし、
「めざすは、義元の首一つ! かかれ!」と一斉に全軍突撃。
この時、義元は、近隣の農民が、戦勝祝いにと"たる酒"などを差し入れたこともあり、
全軍、鎧も脱いで雨宿り中。
そこへ、思いもよらぬ織田の敵兵、初めは、味方どうしの喧嘩かと思ったほど。
たちまち、義元は、織田の兵に囲まれる。
まず、服部小平太が一番槍、
義元も必死の防戦、次に、毛利新介が指を噛み切られながらも義元に組み付くと、
「毛利新介! 義元が首、討ち取ったり!!」
と、まあ、以上が織田信長の歴史上のデビュー戦として名高い、
桶狭間の戦いのテレビドラマのダイジェスト版であろう。(現在の最新の説は、桶狭間ではなく、
義元本陣の桶狭間山へ織田軍が正面攻撃をかけたという説が有力らしいが・・・。)
この戦でもし、信長が敗れていれば、その後の歴史は、
大きく変わっていただろう。おそらく歴史に織田信長の
名前すら、残っていなかったにちがいない。騒乱の絶えない、
暗黒の中世が永く続いたはずである。
しかし、ここでもう一度、良く考えていただきたい。
@本当に「桶狭間の戦い」は、奇跡の大逆転だったのだろうか。
Aそもそも、この戦いの本当の意味はなんだったのだろうか。
B本当に、義元は上洛する為の出陣だったのだろうか。
仮に尾張を倒してもその先には、美濃も近江もある、
次々と戦って、勝ち抜きながら上洛する作戦
だったとでもいうのだろうか。ありえない。
C又、この戦国時代、家臣は次々と主を変えても恥ではなかった。
主が弱いと見限れば、より強い主に仕官すればよい。
なぜ信長の家臣たちは、"勝つ見込みがない"この戦の前に逃げ出さなかったのか。
信長は"うつけ"のバカ殿ではなかったのか。
つじつまが合わないのではないか??
後に、加賀百万石で名高い前田利家などは、信長に追放されていながら、
桶狭間の合戦の直前に帰参している。折角、追放されているなら、
この戦いが終わってから、どこへ仕官するか、ゆっくり考えればよいものを・・・?
よく考えれば、この戦いは謎だらけではないか。
桶狭間古戦場にある今川義元のお墓(お参りして来ました)
(1)まず、桶狭間の戦いまでの主な年賦をたどってみよう。
天文7年(1539年):織田信秀が今川氏豊の那古野城を攻略・奪取する。
天文9年(1540年)6月:織田信秀が三河安祥城を攻略。三河進出の足場を作る。
天文11年(1542年)8月:織田軍と今川軍が三河国小豆坂で衝突。
両軍痛み分け。
天文15年(1546年)信長13歳:幼名吉法師、元服し、織田三郎信長と
名乗る。
天文16年(1547年)(14歳):三河吉良へ出陣、初陣を飾る。
天文17年(1548年)3月:織田軍と今川軍が三河国小豆坂で衝突。
両軍痛み分け。
天文18年(1549年)11月:今川軍が織田方の三河安祥城を攻略。織田
信広(安祥城主で信長の兄)と松平竹千代(後の家康)との人質
交換が行われる。
天文21年(1552年)3月(19歳):織田信秀病没。
鳴海城主の山口教継が
今川方へ寝返る。この年、斎藤道三の娘、濃姫が輿入れ。
天文22年(1553年)(20歳):守役、平手正秀切腹、
信長と美濃の斉藤
道三が正徳寺で会見。尾張・美濃の同盟確認
天文23年(1554年)1月:信長は、斎藤道三が派遣した援軍とともに、
今川方の村木城を攻略。
弘治元年(1555年)1月:信長は、叔父信光とともに清洲城を攻め、
下四郡の守護代家を滅ぼすと、ここを居城とする。
その直後信光急死。信長の毒殺説有り。
弘治3年(1557年):信長の弟・信行が謀反。信長は、
信行の家臣の
柴田勝家を取り込み、仮病を使って、清洲城に信行を
誘い入れ謀殺。
永禄2年(1559年):信長上洛。将軍、足利義輝に拝謁し、尾張支配の
大儀名分を得る。
永禄3年(1560年)1月:信長が今川方の品野城を攻略する。
この頃、鳴海城主の山口教継は、大高城と沓掛城を
調略により、
今川方へ寝返らせるのに成功する。
その後、山口教継は
信長の謀略により、義元に殺される。
信長は、今川方に落ちた、鳴海城と大高城を奪還すべく、
鳴海城の周りに、丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、
又、大高城の周りには、鷲津砦、丸根砦などを築き、
包囲作戦をとる。
永禄3年(1560年)5月(27歳):義元が駿府を出陣。桶狭間周辺で両軍激突
(2)年表からわかる時代背景の解説
年表から分かるとおり、織田と今川の戦いは、今回が初めてではない。
むしろ、小競り合いを加えれば、毎年毎年、城をとったり取られたりを"20年来"繰り返していたのである。
つまり、この辺りが織田と今川の実質的な国境線で、最前線であったのだ。
このようにして、信長と義元の陣取り合戦は、ますますエスカレート。
もはや両軍の関係は、大爆発寸前の臨界点へ達したということだったのだ。
そして、ついに爆発!?。
永禄3年(1560年)5月:義元みずから、駿府を出陣。桶狭間周辺で両軍激突そして、
運命の一大決戦となったという、自然の流れだったのだ。
つまり、"義元の上洛戦"というのは"うそ"。とりあえず、尾張の信長を倒し尾張を併合する作戦だったのだ。
たぶん、上洛戦というのは、後の世の創作か、織田方に故意に流した情報戦の一つだったのだ。
それから、もう一つ、お気づきだと思うが信長は、
今川との陣取り合戦と同時に、尾張国内の統一も着々と進めていた。
暗殺などの謀略が多いが、外の敵とも戦うのだから、
国内戦は、なるべく兵力を温存し、倒した相手の兵力も吸収できるのだから、
合理的な信長なら"なるほど"とうなずける。
さて、いよいよ次回は、桶狭間の合戦の核心へ
次回へつづく