◎本能寺の変の黒幕は誰◎
光秀反逆の動機は何か?・・・
(1)明智光秀とは、
いったい、どういう人なのか?
明智光秀の人物像を探る手がかりに、
順序として、ここから話を始めたい。
明智光秀は、
土岐源氏の流れで源頼光(みなもとのよりみつorらいこう)の末裔の血筋である。
光秀は、四書五経など中国の古典に通じ、和歌や連歌などの教養も深い。
又、信長に気に入られた理由の一つが、
室町幕府の古礼式や京言葉に通じていたからとも言われている。
光秀は、筆頭家老斉藤利三をはじめ、
多くの美濃衆を家臣としていたこと(美濃の元守護は土岐氏、
元守護代は斉藤氏)から、光秀の土岐源氏説は、間違いないと確信している。
一部に光秀は、「身分卑しき者」とのルイス・フロイス等の資料もあるが、これは、間違いである。
又、一歩譲って仮に、土岐氏と血縁がなかったとしても、明智という氏が土岐源氏である以上、明智を名乗り、
水色桔梗の旗指物を軍旗として掲げれば、
たとえ婿養子であろうが、夫婦養子であろうが、何であろうが、
土岐源氏ということなのだ。(氏とはそういうものだ。)
又、光秀という名前の
"光"であるが、
この"光"は誰からとったのであろうか。
答えは、土岐源氏の先祖である源頼光の
"光"である。
光秀は、このことから、
源頼光を意識して育てられ、元服したということが分かるのである。
光秀を理解する上で重要な原点は、ここにある。
それでは、源頼光及び、その末裔たちは、歴史の中でいったい、何をした人達なのだろうか。
源頼光は、陰陽師でお馴染みの
安部清明(あべのせいめい)と同時代の武士で、
屋敷も隣同士、都の北東つまり、都の鬼門の方角にあって、共に
都を守る任務を担っていた。
源頼光は、今昔物語や宇治拾遺物語などにより、
大江山の酒天童子退治や、
土蜘蛛退治で知られている武士である。
又、渡辺綱(わたなべつな)や金太郎伝説でおなじみの
坂田金時(さかたのきんとき)などの多くの豪傑の家臣も従えていた。
現実的には、酒天童子や土蜘蛛とは、おそらく、
天皇軍に討伐された古い豪族の子孫や、盗賊などで、
しばしば、都に謀反や、反乱を起こしていた軍事集団であったのだろう。
又、この源頼光の血筋には、
鵺(ぬえ)退治で知られ、歌人としても有名な源頼政がいる。
頼政は、平清盛と同盟し
源義朝(頼朝の父)と戦うが、
その後清盛が、その子 徳子を入内(じゅだい=皇太子と結婚させること)させるなど、朝廷に近づき、
皇位簒奪の横暴に我慢ならず、
源頼朝や木曽義仲よりも前に、
治承4年(1180年)に以仁王(もちひとおう)と
共に平家打倒の反乱を起こし、宇治の平等院で敗れ自害するという源氏の武士なのである。
彼の行動は、いったい何だったのか?
単独で強大な平家軍と戦うには、弱小すぎて、とても理解できない。
勝算は二の次だったのか・・・?。
ここで大切なのは、そもそも"武士"とは何かということである。
特に、”源氏の武士”は、代々「京の都を守護する」役目があり、
「朝廷に災いを起こすものを討伐する。」ことが、
そもそもの任務=存在意義であった。
又、源氏の武士は、そのことを小さい頃より、繰り返し教育されるのである。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康などの鎌倉幕府、
室町幕府、江戸幕府の代々の将軍(=征夷大将軍)は皆、源氏である。
征夷大将軍とは、”朝廷に敵するものを討伐する者の代表の武士=武門の棟梁”として、
朝廷から源氏にのみ与えられた、官位なのである。(但し、金閣寺を建てた、足利義満は、実際に皇位簒奪を
実行しようとした将軍なので、唯一例外である。この話は又、別の機会に・・・)
戦国時代のその他の源氏は、武田信玄、今川義元などであり、
高い教養を持ち、源氏としてのプライドも人一倍高かったことは、歴史でみるとおりである。
又、逆に織田信長は、
こういう武士の基本教育をほとんど受けていないということなのだ。
このギャップが信長と光秀の対立を決定づけた根本と考えられないか。
(2)光秀の重臣、斉藤利三の概略と私の気になる点
明智光秀の重臣の一人に、斎藤利三がいる。
彼は、藤原氏の流れの、美濃斉藤氏の出である。又、母は、光秀の妹とも言われている。
ということは、光秀と利三は伯父、甥の間柄ということである。
利三は、初め、西美濃三人衆の一人、稲葉貞通(さだみち=後に、一鉄)に仕えていたが、
喧嘩別れをして、光秀に仕える。貞通が、光秀に利三を返すように申し入れ、これを信長にも訴えたが、
光秀は、「良い家臣をもつことは、私のためではない、上様のためである。」と言って断った。
信長は、この理屈に腹をたて、光秀の髷(まげ)をつかんで突き飛ばし、刀に手を掛け、手打ちにしようとする。
以来、利三は、その光秀の行動に感謝し、終生光秀に、忠勤を励む事となる。
@私がちょっと気になるのは、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の妻は、斎藤利三の妹で、
しかも前2代に渡って、斎藤家及びその一族と親戚らしい。
つまり、斎藤利三と元親とは、義兄弟で、斉藤家は、
遠く四国の太守と親戚となるほどの実力者というか、美濃の有力豪族だったということである。
又、元親の息子の妻は光秀の娘との説もある。
当初、信長と長宗我部氏の関係は、以上のことから、
良好で、四国担当は、光秀であった。
ところが、その後、信長は、四国を武力討伐することに方針変更し、
信長の三男、織田信孝を大将にし(丹羽長秀を補佐役に)、
光秀を四国担当から外してしまったのである。
斎藤利三にすれば、長宗我部元親は、
妹婿で、義弟である。なんとか長宗我部氏を守りたいと考えたであろうし、
長宗我部元親も、利三を通じて、信長との関係斡旋を依頼したことであろう。
これが、本能寺の変の、長宗我部元親・黒幕説の根拠となっている。
Aもう一つ解説しなければならないのが、斎藤利三の娘、お福
(後の春日の局)である。利三の母が光秀の妹説に従えば、光秀は、お福の大伯父ということになる。
お福は稲葉正成の妻となる。
この稲葉正成は、秀吉の家臣から、小早川秀秋の付け家老となる。
1600年の関が原の合戦の時に、
徳川家康の内意を受け、
小早川秀秋の裏切りを画策し、東軍勝利に貢献した一人である。
その後、この関ヶ原合戦の功及び、徳川天下取りの功労者として、
稲葉正成の妻、お福を、後の家光の乳母として採用し、
お福の子である、稲葉正勝を後々老中にまで登用したのである。
その後、お福は、春日の局(殿上人即ち、昇殿を許された身分)となり、
大奥にて権勢を振るうこととなる。
ここで、誤解があるが、利三の娘、お福やその子、稲葉正成の栄達を理由に、
本能寺の変が、徳川家康が明智光秀の黒幕であるという説や、斎藤利三との密約説までがある。しかし、
これは、早計で、関ヶ原合戦の功と、お福の賢婦人としての名声とか、本人達のその後の忠勤の結果であるのと、
別の理由(たぶん後述)からであると言いたい。
但し、斎藤利三と家康又は家康の家臣が、前々から入魂(じっこん)の間柄であった可能性は大いにあり得る。
(3)本能寺の変迄の年表
天正3年11月(1575年):信長、家督を嫡男信忠に譲る
天正6年 1月(1578年):信長、正二位右大臣兼、右近衛大将に任官
同年 4月(1578年):突然、上記ポスト辞任
・・・以後、信長は無位無官
となる。
天正7年 5月(1579年):安土城の天守閣が竣工、信長移る
天正8年 3月(1580年):石山本願寺と講和
同年 8月(1580年):佐久間信盛父子高野山へ追放、
さらに、林通勝
父子ら追放
天正9年 2月(1581年):ヴァリニャーノ、オルガンチノ、フロイスら信長を
訪問。ビロードの帽子、砂時計、眼鏡などを贈る
同年 4月(1581年):ヴァリニャーノに、布教を許可
同年 7月15日(1581年):安土城天守閣や惣見寺を提灯(盆の送り火)で
飾る
天正10年 3月(1582年):武田氏滅亡(武田勝頼、自刃)
同年 4月(1582年):恵林寺に火をかけ、快川和尚らを焼き殺す
同年 5月 4日(1582年):朝廷は、勅使を派遣し、
征夷大将軍に推任
するが、信長無回答
同年 5月15日(1582年):家康、安土城に来訪、光秀その饗応役となるが、
突然堀久太郎に変更、光秀に中国出陣を命令、坂本城へ向かう。
この月、秀吉、備中高松城を水攻め
同年 5月21日(1582年):家康、安土を出発、京から、堺へ見物に向かう
同年 5月26日(1582年):光秀、25日迄、坂本城、この日、丹波亀山城着
同年 5月28日(1582年):光秀、愛宕山の愛宕神社で連歌師、里村紹巴
(じょうは)らと連歌の会を催す
この月は、29日で終わり
同年 6月 1日(1582年):信長、本能寺で茶会、
太政大臣・近衛前久
(さきひさ)、勧修寺晴豊以下、40人の公卿、僧侶、
地下人らを集め、名物びらきの茶会
同年 6月 2日(1582年):本能寺の変、
卯の刻、明智光秀の軍一万
三千、本能寺を急襲、信長自刃
(4)天正10年頃の信長の状況、信長は何を考えていたか。
天正10年 3月、長年信長の脅威であった武田氏が滅亡した。近畿周辺はほぼ平定し、
残るは、西は中国、四国、九州、東は関東と東北であった。
「やれやれ、やっと一息」というところであろうか。
信長は、念願の荘厳華麗な安土城も完成し、
そろそろ将来の政権構想に着手していた時期であった。
朝廷からは、「次の三職のうち、どれでも、お好きなものを、どおぞ」と言われていた=三職推任
@征夷大将軍(幕府首長、武門の棟梁)
A関白(天皇を補佐する特別な官位)
B太政大臣(律令制による最高官僚)
ところが現実的には、征夷大将軍は、源氏でなくてはなれない。
信長は、当時、平氏を名乗っていた。
関白になるには、摂関家でなくてはなれないという慣例があり、
系図を源氏に書き換えるとか、公卿の養子になるとかの手続きが必要であった。
信長が公卿の養子になるなど考えられないので、残るは、
平清盛と同じく太政大臣になるしかなかったのである。
公卿や家臣も、たぶん、太政大臣になるだろうと楽観していたのであった。
ところが、信長の合理的な性格からここのところが大問題であった。
信長は、因習や慣例などという言葉が一番きらいであった。
つまり、「慣例、慣例と、そんなに、面倒なら、官位などいらない。」と考え始めていたのである。
現に、天正6年 4月に正二位右大臣兼、右近衛大将を辞任して以来、無位無官だったのだ。
さらに、実は信長は、独自の政権構想を考えていたのである。
ところが、朝廷も家臣(光秀を含む)たちも、
この信長の政権構想を、理解どころか、予想もしていなかったのだ。あたりまえのことではあるが・・・・・。
そういう時期でもあって、このころ信長は、非常にストイックで、突然、機嫌が悪くなったり、
酒宴の席で、家臣を打ち据えたりの奇行が増加していくのである。
それでは、信長の政権構想とは、どんなものだったのか推論してみたい。
天正9年頃、信長は、ヴァリニャーノ、オルガンチノ、フロイスなどの宣教師と、
頻繁に会い。ヨーロッパの政治、宗教、技術、自然科学などを知るのである。
そして、これを独自に理解しながら、新しい政権構想のヒントにしていくのである。
信長は、実験的にこんなことをしているのである。
@安土城に惣見寺という寺を建て、今で言う、商売繁盛、家内安全の功徳があると言って、人々に、お参りをさせた。
しかし、この寺のご神体は、生きた信長自身であったり、ボンサンと名づけられた、唯の石であったりした。
A毎月、11日の信長の誕生日にも、安土城下の者に惣見寺にお参りをさせた。
信長は、ヨーロッパの政治のしくみと、
キリスト教のキリストやゼウスへの崇拝、
信仰をごっちゃにして理解していたのかもしれない。
もしかすると、信長は、日本の絶対的な王となり、
信長自身を神として、崇拝させるような政治体制を、
考えていたのではないか。
さらに、ゆくゆくは、天皇制をも、無力化させるとか、
まさか追放?・・・と考えていたとしても、信長なら遣りかねず、不思議ではない。
信長にとって、天皇制とは、何だったのか・・・・。
但し、いくら合理的思考の信長でも、現実的には、そう簡単に天皇制だけは、無視できなかったのではないか。
その(信長の)理想と現実の間で、信長は、人知れず思い悩んでいたのではないか。
天才信長は、確かに、生まれるのが数百年早すぎたのかもしれない。
いよいよ、次回は、クライマックス・・・こう、ご期待
次回へ続く
歴史の謎解きメニューに戻る