◎本能寺の変の黒幕は誰◎





光秀反逆の動機は何か?・・・2


(5)それでは、次に光秀の立場で、考えてみたい。
 光秀は、その不遇の時代に信長という稀代の英傑にめぐり合い、 一軍の大将にまで取り立てられたのだ、もちろんそのご恩は、海より深く感謝はしている。
 しかし、一方で土岐源氏の末裔として国家の危機、 つまり、「朝廷に災いを起こすものが現われたなら、 これを討伐しなければならない。」という責務というか宿命といったものを感じて、悩んでいたのではないか。
 信長は、いずれは平清盛がしたように、 朝廷に姫を入内させ、朝廷をあやつる影の支配者となるだろう。 いや、もしかすると、足利義昭を追放したように、天皇や公卿までも追放し、信長自身がこの国に絶対王朝を築くのではないか。
 この心配が、光秀の中でゆらゆらと現われ始め、やがて、巨大な妄想となっていったのではないか。

 「思えば、信長は平家であり、源氏にとって不倶戴天の敵ではないか。 信長に滅ぼされた豪族は、今川氏(源氏)、斉藤氏、浅井氏、朝倉氏、武田氏(源氏)と幾多の豪族の中にも源氏の名家名門もある。 又、国家鎮護の比叡山を焼き討ちし、足利将軍(源氏)迄追放した信長に、なぜ自分は従ってきたのであろうか。 信長に仕官したのは間違いではなかったのか。かくなる上は、 自分が土岐源氏の責任を果たさなければならない。」と考えたのだ。

 光秀にとって信長は、大江山の鬼で、自身が源頼光又は、信長が平清盛で、自身が源頼政に思えたのであろう。
こうなっては、なんとしても鬼の信長を退治しなければならない。


 そんな時、偶然にも信長が、僅かな供回りだけで、 京の本能寺に宿泊するという情報を得るのである。千載一隅の好機到来。 もう、こうなっては理屈など二の次で、やるしかない。 細川藤孝や筒井順慶に相談する暇もなく、 数名の重臣に打ち明けただけで、まずは、決行するのである。目的は、鬼退治=信長を討ち取ること、これだけであった。 そういう意味の「敵は本能寺に有り」だったのだ。
つまり、正確には「朝敵は本能寺に有り」だったのだ。



(6)天正10年5月28日の里村紹巴(じょうは)らと連歌の会の歌の意味
光秀は、軍装が調うと、丹波亀山城を立ち、愛宕神社で、戦勝祈願をおこなう。 そこで、里村紹巴らと連歌の会を催すのである。 この時の光秀の歌に、心情を探る一つの手がかりがあった。

光秀の歌・・・・「ときは今 あめが 下しる 五月かな」

ときは ⇒ 土岐源氏、今 ⇒ 
あめが下 ⇒ 天下、しる ⇒ 知る ⇒ 治る ⇒ 統べる
五月かな ⇒ 陰陽・五行説への暗示 ⇒ 森羅万象自然の摂理

行祐法印・・・「水上(みなかみ) まさる 庭の松山」
水上 ⇒ 水の神 ⇒ 治水は政治の根幹 = 天皇   まさる⇒勝、勝利とか成功
庭の松山 ⇒ 吉報を待つ
つまり、「天皇や朝廷側の私たちは、必ず勝利します。 ”成功の報せ”を お待ち致しております。」

紹巴・・・「花落つる 流れの末を せき止めて」
花落つる ⇒ ”さくら散る”と同様の意味、「いやいや、ダメです。失敗しますよ!」
せき止めて ⇒ 「光秀殿!、おやめなさい!」

普通は、ここで、終わりなのだが、二句めも重要な意味があるので、紹介したい。

光秀二句目・・・「尾上の あさけ 夕暮れの空」

尾上 ⇒ 尾張の上様 ⇒ 信長、 あさけ夕暮れの空 ⇒あさひと思ったが、 実は、夕日であった ⇒ 
思えば、信長に仕官した時は、朝日の如く、希望に満ちていたが、朝日はやがて夕日にかわり、 わが身はついに暗い黒雲に覆われた  ⇒ 今は、信長に仕官したのは、自分の見込み違いで、"まちがい"であったと思えるようになった。⇒ 深い、 後悔と自責の念を持っていた。

 その後、月も替わった6月2日、(この年、5月は29日で終わり)中国出陣の軍令を発すると、沓掛から老いの坂を超えたところで、 「(朝)敵は本能寺にあり」となるのである。

(7)最後に結論
@本能寺の変の犯行の動機は、光秀の土岐源氏の末裔として、 織田信長という鬼を退治するという土岐源氏に宿命づけられた血筋による自然の行動であった。

A鬼退治とは何か、それは、織田信長の政権構想に問題があった。
いずれ信長は、天皇や公卿を追放し、信長自身がこの国に絶対王朝を築くのではないか。という、心配があった。

B光秀は、重臣以外に誰にも相談していない。 単独犯である。
後のことなど何も考えていなかった。 信長に代わって天下をとるとは、あとから取ってつけた大儀名分で、とにかく、この好機に急いで 信長を討ち取ることだけが、唯一絶対の目的だったのだから、 その後のことなど何も考える必要もなかったのだ。

C明智光秀は、織田信長に謀反を起した”反逆者”とか”裏切り”のイメージ がある。これは、少し酷な評価ではないか。信長側から見れば、”裏切り”であったかもしれないが、信長と反対側の立場、 つまり、朝廷側から見れば国家の危機を救った忠臣ということではないか。
ズバリ、本能寺の変の黒幕は、朝廷だという説があるが、湾曲的とか間接的に光秀に働きかけた公家はいただろうが、 ・・・それなら、光秀側に、朝廷のお墨付きである”綸旨”がないのは、なぜだろうか。
光秀も最後に朝廷に裏切られたのだろうか・・・・???


(8)追伸・・・・その日の信長の気持ちと家康への継承
冒頭にある「殿、謀反、敵は水色桔梗の旗印、 明智光秀でございます。」と森蘭丸が叫ぶ。 信長、「是非におよばず!」と一言
この時の信長の気持ちは、どうだったのだろう。 たぶん、光秀謀反と知ったとき、なぜ光秀か、その意味のすべてを悟ったはずである。 そして「よかった・光秀でよかった〜」という安堵の気持ちだったのではないか。 すべては、権力という魔物のなせる業であった。 信長とて、自分の考えている政権構想が とても、当時の人々(武士や公卿等)に理解されるものではないことぐらいは、分かっていたのである。
「しかし、自身のもって生まれた"鬼の心"を、どうすることもできない。」 というジレンマに陥っていたのではないか。

 従って、こんな時の為に地下道の抜け穴ぐらいはあったのだが、 逃げれば逃げられたのだが 、信長はあえて、逃げなかったのではないか。
 但し、最後の意地は、その首を光秀に与えないことであったのだ。 もし、この首を光秀に与えてしまったら、ことの善悪の"けじめ"がついてしまう。 そうなっては、又、光秀が鬼の自分となり、信長と光秀が入れ替わっただけのこととなってしまう。
まるで、”かごめかごめ ”のように・・・。 信長は、それだけは避けたかったのではないか。

 歴史は、この後、豊臣秀吉から徳川家康に、政権は移っていくのであるが、 その中で、光秀の気持ちを一番理解したのは、徳川家康であった。 その理由は、次のとおりである。
@三代将軍、家光の"光"はだれの"光"か、源頼光の"光"である。 それは、「朝廷に災いを起こすものが現われたなら、 これを討伐しなければならない。」という源氏にのみ与えられた、武門の棟梁である征夷大将軍の使命の確認であった。

A同じく、水戸徳川家を継いだ、光圀の"光"も源頼光の"光"である。家康は、光秀の意志を継いで、 決して、朝廷には近づかないし、水戸徳川家には、尊王思想の継承を末代迄託したのであった。

(このことが、後の幕末時に、水戸徳川光圀の末裔であり、 尊王思想を受け継いだ将軍徳川慶喜が大政奉還し、 徳川幕府の崩壊と明治新政府樹立という意外な形となって、 現れるのが、歴史の不思議さ、面白さでしょうか。家康は、幕末を何とみたのであろうか・・・? 私でなくても誰でも、聞いてみたいですよね・・・!)

B家康は、兄とも慕った信長を討った光秀やその家臣達に決して恨みをもっていないのである。 もっとも、家康の長男信康は、信長に切腹させられているので、基本的には、信長は息子の仇ではあるのだが、 そういう恩讐(恩とあだ、情けと怨み)を超えたところで、 ""斉藤利三の娘お福を家光の乳母として採用したり、 その子稲葉正勝を老中まで登用したりする""のは、すべてその人の能力を見てのことであり、 自然のことであったのだ。

C以上、もしも、徳川家の末裔が、皇位簒奪を考えたなら、 必ず第二の光秀があらわれてこれを阻止する種を蒔き、仕組みをつくったのであった。
(ここまで読めば、たぶん・・・あなたも、そう思いませんか?)


 以上、納得していただけたでしょうか。「え〜、さんざん引っ張っておいて、 結局黒幕説ではなくて、光秀の単独説だったのか!」とこの展開に、少々お怒りですか?
 いや〜ゴメン、ゴメン。こういう展開にしないと読んでもらえないでしょ。


(9)追伸の追伸・・・・最近の考え
光秀と家康の関係、光秀と秀吉の関係が、謎ですよね!
もしかすると、光秀をキーにして、皆つながっていた可能性があるかもしれない。 光秀は、天下取りのすべて先まで見えていたかも・・・・。その為の本能寺だったのか・・・・・????

とりあえず、眠いので、


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