★大一大万大吉の謎★



石田三成の旗印「大一大万大吉」に秘められた謎


(1)前書き
 関が原の戦いで、西軍を事実上率いたのは石田三成(みつなり)。 三成は、豊臣方の五奉行の一人で、近江、佐和山 十九万五千石の領主であった。
 一方の東軍の大将は、徳川家康。 家康は、五大老の一人で、関東に 二百五十万石 (実に石高は三成の10倍以上) の大大名であった。 家康は歴戦の勇者にして、すでに老獪の域に達していた。 その実力の差は歴然ではあったが、三成は、豊臣秀吉亡き後 家康の横暴に耐えかねて、秀吉のご恩に報いる為、豊臣秀頼の将来の為にと粉骨砕身し 反徳川の兵を挙げるのである。
 結果として、家康を敵にして、有名な「天下分け目の関ケ原」と 後世に言われるような、東西約 二十万の軍勢が対峙した、 日本史上最大の合戦であり、又、家康と互角の戦いを成し得たのは、 三成も、並々ならぬ実力者だったと思うのだが、 敗者の評価が低いのは致し方ないか・・・・。

 例えば、三成と同じく、秀吉恩顧の大名の一人であった福島正則と比べるとよく分かる。 正則も気持ちや立場は、三成と同じく親秀頼であったが、朝鮮の役以来の軋轢もあり、 武闘派の正則官吏派の三成と対立していたのである。
 しかし、その後の歴史で見るとおり、豊臣家は滅亡し家康の天下となり、 正則も又、家康に難癖を付けられて領地没収改易となり、 結果として、家康に上手く利用され捨てられたことを思えば、 三成の"先見の明"は確かであり、その行動は正しかったといえるのではないか。
 もし、関が原の合戦前に、正則などに私恨を超えて、 「将来を冷静に見通す能力と判断力があったなら・・・・」と思うのは、 私だけでしょうか。
まあ、これが歴史の必然性なのかも知れませんが・・・。



 さて、ここでの主人公は、石田三成。いったいどんな人物だったのだろう・・・。

(2)三成と、秀吉の運命の出会い [三献(さんこん)のお茶]
 秀吉が、長浜城時代、羽柴秀吉のころのある暑い日のこと。 鷹狩に出た秀吉が、途中で観音寺という寺に立ち寄り、のどが渇いたので、寺の童(わらべ)に、 お茶を一杯所望したことがことのはじまりであった。
 すると、童は、大きな茶碗に七〜八分目、ぬるめのお茶を持ってきたのである。 秀吉も、喉の渇きから一気にこれを飲み干し、「もう一杯、かわりを!」と告げると、
 今度は、先ほどより少々熱いお茶を 同じ椀に半分ほど持ってきた。秀吉は今度は、落ち着いて、ちょっと味わいながら飲み干したのである。 そこで、秀吉は、それでは試しにと「もう一杯、かわりを!」
 すると今度は、先ほどより少々小さめの椀に熱いお茶を、すこしだけ持って来たのである。 秀吉も、最後は、ゆっくりと庭の四季草木を眺めながら一服のお茶を味わったのであった。
 この気の利いたお茶の入れ方に、並々ならぬ才気を感じた秀吉は、この童を引き取り家臣に取り立てたのである。 名前を佐吉。これが後の石田三成である。
 たぶん、三成の名前の由来も、 この三杯のお茶から身を興したことに発していると思うのだが・・・?


(3)石田三成のことを歌った歌の謎
 もう一つ、石田三成を知るうえで、面白い歌がある。関が原の前か後かは、定かではないが、こんな歌である。

三成に、過ぎたるものが二つあり、 島の左近に、佐和山の城

 これは、「勇猛な侍大将島左近(別名、鬼の左近)や、三成の居城である名城 佐和山城に比べて、三成の能力が低く、上手く使いこなせなかった。 つまり、三成はダメな武将だった。」というような解釈が、一般的である。はたしてそうだろうか。
 もし、あなたもそう思うなら、それは「家康の謀略に、まんまと落ちた。」ということと同じことかも・・・しれないのです。

 もっとも、私たちは、小説やテレビドラマなどで「三成という人は、 秀吉の権力を笠に着て威張りちらし 人望がなく、特に朝鮮の役での軍監という 立場から、加藤清正や福島正則などの武闘派にとって、戦場の後方で 楽な仕事をしながら、あれこれと秀吉に、告げ口をした "いやなやつ" 」という イメージが頭の中に、すっかりインプットされているからでもあるのですが・・・。ここで、 これらの既定概念をすべて頭から取り去って、 今一度、この歌を詠んで頂きたい。 きっと、違う意味が見えてくるはずなのです。


三成に、過ぎたるものが二つあり、島の左近に、佐和山の城

 三成は、島左近という武勇にすぐれた者を召抱える時に、 常に自分の半分の所領をやろうと約束したというのです。 例えば、自分が千石なら、左近に、五百石、一万石なら、五千石の所領を与えたのです。 又、佐和山の城は、京、大阪の入り口にあたり、軍事戦略上の重要な拠点なのです。 秀吉から、この城をまかされたのは、それほど、秀吉の信頼が厚かったということで、その期待に一心に答えようとしたのです。 又、朝鮮の役に端を発する三成の不人気は、秀吉の身代わりに、 秀吉に対する不満を口にできない者の受け皿となったということ なのです。

 そうです。この歌の本当の意味は、
「石田三成という人は、島左近という有能な武将を持ち、 秀吉から佐和山城という重要な城を任された。それほど、りっぱな殿様だ。」という、三成を讃える歌なのです。
「自分より、過ぎたるものを持てるものこそ、(そういう大きな度量を持てるものこそ)  さらに、すぐれたものである。」という意味と、
 そして、三成に掛けて、 "三成"(さんせい)と"左近"と"佐和山"の三つの "さ" がそろって、 事が成る。 = ベストミックス = 三成(みつなり)という意味なのです。

 これが、敗軍の将となって、意味が逆転してしまったのです。 朝鮮の役の件にせよ、三成がいたからこそ、兵たちは、 飢え死にもせず、無事に日本に帰れたのかもしれないのですから・・。あなたも、この説に賛成しませんか?
                                    (My original)

 これと同じような手法の歌は、江戸時代の庄内藩(現在の山形県、酒田地方)の俗謡で、

本間様には、およびもせぬが、せめてなりたや殿様に

 というものがあります。これも、普通に考えれば、 「殿様には、とてもなれないが、(本間様のように、殿様にもお金を貸すような)大金持ちには、なりたいね。」 という意味なら、理解できますが、そうではなく、 「初めから、本間様には、とてもなれない。」と、あきらめているのです。つまり、 「それほど、本間様は、すばらしい。 酒井の殿様よりも、すごいという、本間様をたたえる歌なのです。 しかし、ほんとうに、成りたいのは、庶民からすれば、やっぱり、 殿様より、大金持ち・・・ですよね・・!?」という、 どちらも、表面上の意味と本心・本当の意味が反対だという、 手法により更にその意味を強めているのです。あらあら、だいぶ、横道にそれました。


(4)軍旗「大一大万大吉」に秘めた三成の思い
 関が原の合戦図屏風などに、この「大一大万大吉」の家紋を旗印にし、 石田三成軍が東軍と奮戦した姿を 見ることができる。実は、三成は、もともとは、九曜紋という、ごく普通の家紋を使用しており、 反徳川の挙兵時に、新しくこの家紋や軍旗を使用したのである。 そこには、三成の並々ならぬ決意が秘められていたのである。


では、この「大一大万大吉」に秘められた三成の思いとはなんだろうか?

大 一

最高 ⇒ 一番 ⇒ 勝利


大 万

よろず ⇒ 数としては、最大 ⇒ 

無限 ⇒ 最強 ⇒or 無限の繁栄


大 吉

縁起のよさでは最高の大吉 ⇒ 幸運

さらに吉は、幼名の佐吉の吉か?

又、という字は左右どちらに転んでも変わらない⇒ 絶対不滅


ここまでは、ありきたりの解釈なのだが、もっと深い意味があるのが分かりますか?

良く見ると、ある人の名前が浮かんできませんか? えー!!??


つづきは次回へ



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