◆三つ葉葵の秘密◆




三つ葉葵の秘密

 ”三つ葉葵” と言えば、水戸黄門様が、格さん助さん等を従えて諸国を漫遊しながら、悪代官をやっつけるというイメージが強い。
 その時、8時50分頃、お供の格さんが、”三つ葉葵の印籠” を悪代官に向けて、
「ひかえ、ひかえ、頭(ず)が高い、こちらにおわすお方をどなたと心得る。 先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!!」
「は、はー! 畏入りました・・・。」
 どんな悪代官も、この”三つ葉葵の印籠” にだけはかなわない。すごいの一言だ。残念ながら、 現代には、この”三つ葉葵” の権威に匹敵するものは、・・・何も無い・・・。
「なかなか罪を認めない○○○○に、くりかえし水戸黄門のビデオを見せて洗脳し、裁判の時に、裁判官がさっと、 この”三つ葉葵” の印籠を見せたらいいのに・・・・」と思ったのは、私だけ?・・・・


1.松平から徳川への改姓の謎
 徳川家康は、元々の姓は松平であり、永禄3年5月17日(1560年) 織田信長が桶狭間で 今川義元を討ち取った後、それまで今川家に人質となっていた、松平元康が独立し、翌年、信長と同盟を結んだ頃、 義元の”元”を返上して、家康と改名したのでした。
 その後、永禄9年頃、三河の一向一揆(いっこういっき)平定後、 一揆鎮圧に苦労したことから、 松平本家と松平支族の 支配従属体制強化 の為、 松平本家のみ特別に、徳川氏 を名乗ったといわれている。 この頃、家康は、酒井忠次組、石川家成組、旗本組の下に松平氏族を振り分けるなど思い切った軍団編成をしているのである。

(参考に・・・当初は、藤原氏の徳川を名乗ったのであり、 平家と源氏が交代で政権を担当してきたといういわゆる”源平交代思想”に基づく 清和源氏の新田氏の支流である徳川氏への改姓だったと、 新田氏の系図を持ち出したのは、秀吉の死・前後の、 さらに先の話である・・・という説が有力です。)

 この一向一揆は、家康の家臣をも二分した激戦の連続で、家康最大の危機 だったとも言われている。もし、ここで家康が三河の内乱鎮圧及び三河統一に失敗したなら、その後の歴史は大きく変わったはずなのです。

そして家康は、この改姓問題で、次の事項で大いに迷ったはずなのです。
 松平から徳川では、縁起の良い”松””平”が消えてしまう。 これでいいのか?・・・ 松平を捨てるほど”徳川” の方がすばらしいのか?・・・・
 ”徳の川”の意味は、中国の古典から家康等がひねり出した姓なのだろうが、同時に この問題を解決したのが家紋の変更による、”バージョンアップ”だったのではないか。
 私は、この頃徳川への改姓とセットで、家紋を、”剣銀杏” (けんいちょう)から ”三つ葉葵” に変えたのではないかと確信している。 その理由は、もちろん、・・・・。
 又、もう一つの謎は、誰の発案又は助言だったのか?・・・ということで、これはよく分からない。・・・謎だ。



2.三つ葉葵紋の謎
@そもそも、葵紋の由来は、平安時代の頃、京都の賀茂神社の祭礼に葵の若葉が用いられた事から、 賀茂神社の神紋となったことが最初らしい。今に伝わる京都の葵祭りは有名である。 しかし、この神紋は「二葉葵」で、 葵の葉は一株に必ず2枚ずつ出てくることから神紋を「二葉葵」にしたらしく、徳川家の ”三つ葉葵” とはちょっと違う。 そして、この賀茂神社ゆかりの家 = 徳川家も”葵” の 紋としたという説が有力らしい。そうだろうか?・・・・。

A又、三河国松平の近くに巴川が流れていた事から、 巴 ⇒ 三つ巴 ⇒ ”三つ葉葵” にしたという説もありますが、これは 何か変ですよね。三つ巴では、逆に、徳川家の内紛続発ですよね・・・・。

 もともと松平家、例えば家康の父の松平広忠の墓の紋は、 ”剣銀杏”(けんいちょう)だったことから、 家康が家紋を変えたことは間違いない。 そもそも清和源氏の新田氏は、”大中黒” 又は、 ”一引両” の家紋なので、 ”三つ葉葵” に固執したのは、 何か特別の理由があったはずなのだ・・・・・・。


3.三つ葉葵の意味
@
◎陰陽・五行説の不思議◎で、 ふれたとおり、中国の周の武王の故事を知り、 三河の領国経営を安定させる為だった。
 それは、”葵”が草冠に  ”癸”(みずのと) =  ”みずの弟” だった。 つまり、”水”を意識していた。 ”癸”は、十干の最後、で水とは協調関係である。

 水は、自然に高いところから低いところに流れ、 川となり末は、大海に至り、一つに纏まり安定する。
 つまり、水は常に、平準 ⇒ 平安 ⇒ 安定・・・から ”家臣の結束”、”統治の安定”とか”領民の安寧” を暗示しているからである。
 それと重要なのは、この頃から、家康は、陰陽五行説の五行循環説を知り、 自身が水徳であることを認識し、積極的に取り入れていったということなのです。 これにより、時節到来を待ちに待ち続けたことが、将来の天下取りに役立ったことは、 その後の歴史に見るとおりだったのです。

Aもう一つ、ここで、思い出していただきたいのが、きっかけは、 三河の一向一揆だった。 一揆の”揆” は、才偏(てへん)に・・・ ”癸”(みずのと)ですよね。
”揆”から手を取り上げ、上から草で封じると・・・ ”葵”(あおい)だった。
揆 − 才 + サ = ”葵”・・・つまり、 ”葵”には、”一揆 封じ” の意味もあったのでした。
 それでは、次に何故、二葉ではなく ”三つ葉” なのか?
 なぜ”三” なのか? 三河の国の”三” とのゴロ合わせの他に、もっと重要な意味があるはずなのだが・・・・。


4.中国の故事に次のものがある。
春秋五覇の一人であった 楚 (そ) の荘王は、かねてより天下を奪う野心があったので、 ある時、中国西方の異民族を討伐した後、周の都 洛陽付近で大軍をもって示威行動をしたのでした。
 周王(定王)は、これに驚いて、王孫満 (おうそんまん) を派遣しその労をねぎらったのだが、これに対し、荘王は、 王位の象徴とされる”鼎”(かなえ) の軽重について尋ねたのでした。 (見たことも無い鼎ってどんなものなの? 軽いの重いの、 小さいの大きいの、どんな形なの?と、尋ねた。)

 

(鼎とは、 三つの足と二つの耳をつけた釜のことで、夏の禹(う)の王が中国の九つの州に銅を献上させ、 それを 鋳て作ったもので、夏王朝が滅ぶと、殷、 続いて周王朝に引き継がれたので王位継承の象徴とされた。・・・左写真)

 結局、荘王は、王孫満にその野心を見抜かれて、
「鼎は、徳のあるところに継承されてきたのであり、 周王の徳が衰えていないのだから未だ周にあるのです。 だから鼎(かなえ)の軽重は問題ではありません。」という言葉で、不遜な荘王を戒(いまし)めたのでした。 鼎はその後、周が滅亡すると 秦 (しん) の手に渡りましたが、運ぶ途中で 泗水 (しすい=川の名) というところに沈んだとも伝えられています。

 そして、重要なのは、政治の要の象徴である、鼎は、徳のあるところに継承され、 鼎は、三本足ということなのです。


5.三という数字の意味するもの
 王位継承の象徴であった鼎の三本足は、一本でも折れると倒れてしまう。 もし、鼎の足が四本だったら、一本おれても倒れない。倒れないことが良いのではなく、四本足は、見せ掛けの安定で、 ”三”こそ、最小にして最大の、真の安定 = バランスの象徴だということなのです。
 毛利元就の三本の矢、天下三分の計、後の徳川御三家とか、”三”には、おそらく、そういう意味があるのだと思うのです。 逆に”四”は、死に通じて縁起が悪いというのは、分かりますよね。

 これらが相乗して、・・・ゆえに、”癸”(みずのと)= ”水”は、 ”徳の川”に流れて つながり、 ”川”は、横にして、 ”三”につながり、 ”三つ葉葵”につながり、 ”三つ”は、”水”に つながり、循環して、元の”癸”に戻るのです。

 ”三つ葉葵”の御紋は、中国古典哲学の五行循環説のとおり、 徳川幕府 三百有余年の天下泰平と権威の象徴( = 鼎)となったのは、 歴史とテレビドラマの水戸黄門に見るとおりだったのでした。



最後にクイズを一つ、
このページのどこかにもう一つの”癸”が隠れています。さて、何でしょうか??




正解は ・・・



 以上、発見の喜びをあなたに・・・





陰陽五行説の復習へジャンプ



今日のメニューに戻る