●大谷吉継は、なぜ石田三成に味方したのか?●
(1)決戦・関ヶ原・前書き
慶長5年(1600年)9月15日、関ケ原の戦いで、壮絶な最後を遂げた万石以上の大名は、
西軍の大谷吉継と吉継の
与力の平塚為広の二人だけであった。
二人とも西軍敗北を悟った後、為広は敵陣に突撃して討ち死にし、
吉継は、自害し、長年の従者である湯浅五助に首を討たせのであった。
大谷吉継と
石田三成とは、二十数年来の親友であり、
”友誼に殉じた武将”とも言われている。
この越前、敦賀五万石の大名、大谷吉継は、豊後の生まれで、
父は、平貞盛が子孫 大谷盛冶で、
大友宗麟の家臣であったが、大友家没落後、
諸国流浪の身となっていたところ(出自については、諸説有り)十六歳で
石田三成の推挙により
秀吉に、小姓として仕えたことが始まりで、めきめきと頭角を現すのであった。
幼名は紀之介、元服して、
秀吉より、秀吉を継ぐほどの能力をたたえられて、吉継と名づけられるのである。
後に、秀吉から「一度、
吉継に百万の軍勢の采配をまかせてみたい。」
と言わしめたほどの戦略家であったというのである。
初陣は、柴田勝家との賤ケ岳の合戦に、
加藤清正や
福島正則らとと供に参戦し、
「賤ケ岳の七本槍」に次ぐ武功を石田三成らと供に
認められるのである。
その後の小田原征伐には、石田三成
の与力として、真田昌幸や浅野長政らとともに、
北武蔵の忍城攻め(現在の行田市)などの関東支城の掃討戦に加わっている。
これについては、当HPの
★石田三成は、合戦が苦手って本当?☆
のコーナーで、詳しく述べているので、是非、ご一読頂きたい。
その後も、三成とともに、九州征伐や朝鮮出兵時等での兵站奉行や、軍監として、活躍するのであるが、
性格面は、三成と違って、権力を傘に着て、偉ぶるところが無かったのか、
加藤清正や福島正則などの武闘派からも、受けは良かったようである。
ところが、朝鮮出兵の頃から、当時不治の病といわれた、
ハンセン病に侵されてしまうのである。
関ケ原の戦いの頃には、病気はさら進み、全身の肉が崩れだし、ほとんど目も見えず、
白い頭巾で顔を覆い、一人では、歩行もままならず、
決戦の当日は、甲冑も着けず、白絹の小袖に直垂(ひたたれ)を着た、
まさに死装束で臨み、輿(こし)に乗って、采配を振るったと言われています。
この大谷吉継率いる軍勢は、与力の平塚
為広(美濃垂井一万石)や息子の木下頼継を合わせても、
およそ四千人、この寡兵で、東軍の藤堂高虎、京極高知、寺沢広高などの軍勢一万余り、
更には、小早川秀秋の裏切りにより、小早川軍一万五千、
さらに、脇坂、朽木、赤座、小川などの裏切りにより最終的には二万有余の大軍を一手に引き受けて、大奮戦。
”まさに嵐によって、
崩れる堤を素手で防ぐ”の例えどおり、小早川秀秋が裏切った頃には、
怒りで、血の涙を流しながら、もう死に物狂いの凄惨な戦をし、
そのほとんどが全滅、玉砕したという”悲劇の武将”なのです。
(2)お茶会の友情話
大谷吉継と
石田三成との「友情話」として、有名な逸話があります。
ある日、大阪城内で秀吉主催の茶会に呼ばれた時の話である。
このころ、吉継は、ハンセン病がすでに発病しており、一度は出席を断ったが
秀吉と三成の”吉継の存在をアピールしたい”
というはからいもあり、無理に出席するのである。
そこで、秀吉の立てたお茶をその日のお客で、回し飲みしていくと、
吉継の番の時に、鼻汁を茶碗の中に落としてしまうという、
粗相(そそう=しくじり)を、してしまうのでした。
これを見てしまった、次の客将は、気味悪がって、手を出そうとしない。周りの者は、ただ、唖然。
吉継は、じっと下を向き、今にも部屋を飛び出して、・・・「腹を切ろう!」と、思った・・・その時・・・・。
突然、石田三成が、歩み出て、
「順番を違えて申し訳ないが、喉がかわいたので、お先に頂戴いたしたい。」と言うなり、
そのお茶を、一機に飲み干してしまうのである。
”礼儀知らずは、三成”ということになって、その場が丸く納まったのでした。
この、三成の気転により、吉継は、恥をそそがれ、腹を切らなくて済んだのである。この時の感謝の気持ちから、吉継は、
「今後、この三成の為なら、
どんな無理難題も聞いてやろう。」と、心に決めたというのである。
・・・と、いう話である。
さて、この話は、本当だろうか?と、無粋なことを言うつもりは、まったくない。
なぜなら、関が原の合戦後、三成をおとしめた話が多い中で、この話は唯一、
三成と吉継の「友情話」として、語り継がれており、謀略、打算、裏切り、日和見といった中で、
ちょっと心が救われるというか、戦国の世の一服の清涼剤のような感があり、私の最も好きな話だからである。
(3)なぜ、大谷吉継は、石田三成に味方したのだろうか・・・・?
@それは、一番は、何と言っても、秀吉への恩義
であり、筋目という、感覚からではなかったのか。
大恩ある秀吉が、いまわの際に、「秀頼のこと、くれぐれも、頼み参らせ候」と、
遺言したのである。
それが、秀吉が死ぬとすぐに、喪も明けぬうちに、
家康の専横が始まるのである。
「こんなことが許されるのか。筋がちがう。」という想いが、強く
あったのではないか。
Aそして二番目が、二十年来同僚として働いた
石田三成
との友情だったのではないか。
たぶん、いや、もしかすると、この三成とは、本当は、気の合わない、いやな同僚であったのかもしれない。
しかし、目的は、
「故秀吉及び、秀頼への忠義」という大儀で、一致していたのであった。
Bそして、三番目が、余命幾ばくも無い、己の身から、
最後に、武士としての生きた証(あかし)が欲しかったのかもしれない。「最後は、武士として華々しく、
戦場で、思う存分采配を振るってみたい。」という
”武士の意地”だったのではないか。
言い換えれば「武士としてこの世に生を受けたのならば、一度は、思いのままに軍勢を指揮して戦ってみたい。」
この心情は、当時の武士の考え方の一つで、
例えば、真田昌幸・幸村親子の発想と同じと思われる。
Cさらには、すべての根本なのかもしれないが、己のハンセン病という病気により、大恩ある秀吉に十分な、
ご奉公ができなかったという負い目があり、なんとか”納得できる恩返し”がしたかったのだろうか?
もちろん、これらのことと、家臣や家族のことを想い、その間で、悶々と思い悩んだことは間違いない。
しかし、家臣や家族も、そんな吉継の気持ちを十分理解したのだろう。反対するものは誰もいなかったばかりでなく、
まさに命がけで、吉継に従い、破滅と破壊そして・・・滅亡の道を歩むのである。
さらに、吉継ほどの者なら、初めから勝敗は見えていた。つまり、負ける戦と分かっていながら、戦い・・・そして敗れたのではないか?
俗に言う”知れたる往生”をしたのではないか? なぜだろう? これが、最大の謎である。
そのあたりを確認する為、関が原の合戦までを順に、追ってみたい。
(4)関が原の合戦までの推移
慶長3年(1598年)8月18日(関ヶ原の合戦の2年前)の早朝、伏見城で
秀吉が死ぬと、
家康は、早速に天下取りへの野望を
剥き出しにし、秀吉との約束を破って、豊臣恩顧の大名
福島正則、伊達政宗、池田輝政らと縁組をしたり、
恩賞として領地を宛がったりと、
勝手なことをし、露骨な形で、親徳川の勢力拡大を計るのである。
慶長4年(1599年)6月に、上杉景勝
が、領国経営の為、転封まもない会津に帰ると、
「城を修理しているとか、浪人を集めて、戦の準備をしている。」と、
上杉謀反の疑いをかける。
慶長5年(1600年)1月、家康は、
上杉景勝に上洛を求めるが、景勝拒否。
同年3月、景勝の重臣、藤田信吉が会津を出奔、秀忠、家康に「景勝に謀反有り」と伝える。
同年5月3日、家康、会津出陣を発令
同年6月16日、家康自ら、上杉征伐軍を率いて、大阪城を出陣、東下する。
同年7月2日、
大谷吉継も、一千五百の兵を率いて、美濃垂井に到着すると、
三成の子重家を、会津征伐に同行させる為、三成の居城佐和山に、使者を
送るのであるが、同時に、三成からも、
「是非、佐和山城へお越し頂きたい。」と、使者が
あり、吉継は、佐和山城へ向うのである。
そこで、三成から「何としても、家康を討ち滅ぼしたい。」と、
反徳川の挙兵を打ち明けられるのである。
さらに、三成のいうには、「家康は、故太閤殿下との約束を破り、
豊臣恩顧の大名と縁組をしたり、恩賞として領地を宛がったりと、
勝手なことをし、露骨な形で、親徳川の勢力拡大を計り、
又秀頼様を蔑ろ(ないがしろ)にしている。今のうちに家康を討たないと、
いずれ豊臣家は家康により滅亡させられてしまう。」
そこで、吉継は、「貴殿は、今まで多くの人を裁いてきた。しかも、太閤殿下の権力を笠に来て、横柄で人望がない。
逆に家康殿は、人望があり、評判がよい。
とても、勝てないから止めたほうが良い。又、家康殿は、知恵も勇気もあるが、
貴殿は、知恵はあるが、勇気がない。家康が関東に下る前に、
近江の石部宿に家康を夜討ちしようと、家臣島左近が進言したが
、貴殿は、それは卑怯なことと断ったが、これは、勇気がないからだ。この時家康を討ち取らず、
江戸に帰してしまったのは、虎を野に放ったようなもの、もはや手遅れだ。」
などと歯に衣を着せずに、説得するのである。
こう味噌糞に言えば、無謀な挙兵もあきらめると思ったのかもしれない。
この当時、吉継は、「天下安寧の為には家康の天下取り(政権奪取)は、やむを得ない。
豊臣家は、徳川政権の下で、一大名として、生き残るしか道はない。それが天命だ!」という現実路線的な考えであった。
しかし、それでも、三成の決心が固いことを知ると、例の
お茶会話を思い出し、
「毛利輝元・秀元親子を上に置くなら、協力する。」と約束するのである。
そして、越前の前田利常の大軍の南下を謀略によって防ぐなど活躍し、関ヶ原の戦いにも、
西軍中、最も勇敢に戦ったことから、
”友誼に殉じた武将”と言われている。
いよいよ、次回は、革新へ
いよいよ、次回は、核心へ
いよいよ、次回は、確信へ