〇生涯最大の艱難、伊賀越えの謎〇
家康、生涯最大の艱難(かんなん)、伊賀越えの謎
(1)徳川家康、伊賀越えの概略
天正10年(1582年)6月2日未明、戦国のクーデター本能寺の変勃発。
明智光秀の軍勢一万三千が、
毛利攻めをしている羽柴秀吉を救援する為、備中高松に向って、
進軍中、老いの坂を越え、桂川を渡ったところで、「敵は本能寺にあり」と、突如矛先を替え、
織田信長を京都、本能寺に急襲、
信長はついに、天下統一の一歩手前で、惜しくも五十年の生涯を閉じたのである。
その時、何も知らない、徳川家康(41歳)は、
10人たらずのわずかな供回りを連れ、
堺見物からの帰路の途中であった。
家康は、この年の3月に、甲斐の武田氏が滅びると、信長から駿河を任され、
駿河、遠江(とおとうみ)、三河の三ヶ国の太守となり、その御礼の為、安土城の信長
を訪ね、信長に勧められて、京都から堺の町を見物していたのである。
6月2日堺見物を終え京へ戻る途中、ちょうど堺と山城の国境、飯盛山に差し掛かると、
京都の方角から、茶屋四郎次郎という商人が、裸馬に乗って、駆けつけ、
本能寺の変の一部始終を告げるのである。以後、茶屋は、家康一行に加わり、
銀子を数十枚隠し持っていたので、盗賊に会うと、金を渡して難を乗りきったこともあったのである。
茶屋より信長の自刃を知った家康は、泣きながら、
「わしも織田殿の後を追い、腹を切る。」と刀に手をかけるが、
酒井忠次などの重臣が止めに入り、
なんとか、岡崎城まで、落ち延びて、信長の弔い合戦の為、兵を挙げることと決するのである。
しかし、岡崎城に帰る為には、普通なら京の山城、近江を通り、東海道を東へ進まねばならない。
しかし、まさにそこは、明智光秀の勢力下、すでに、
主要な街道は、光秀の軍勢によって、押さえられており、
敵中に取り残され、帰路を絶たれた形となった。家康、絶対絶命。
さらに、光秀は、必ずや、家康に対して追っ手を差し向けるに違いない。
いつまでも、ここで、ぐずぐずしてはいられない。
そこで、家康は、山城から南へ伊賀街道を通り、御斎(おとぎ)峠を越えて、伊賀の山中を東へ、
そして加太峠を越え、伊勢へと抜ける道を選ぶのである。
当時、伊賀街道とは言っても、険峻な山又山の難所である。
さらに悪いことに、前年の天正9年の伊賀の乱により信長に攻められ、荒廃し、
信長に対する恨みもあり、途中で、落ち武者狩りや伊賀忍者に襲われかねない危険地帯であった。
そのため、「御生涯最大の御艱難(かんなん)の第一」とか「神君家康公の伊賀越え」といわれ、今に語り継がれるのであるが・・・・。
又、この伊賀越えには、謎が多く、「家康は、事前に本能寺の変を知っていたのではないか。
そうでなければ、
@伊賀越えがまるで、事前準備があったかのようで、突然には、できるはずがないとか、
A6月2日の本能寺の変の当日に、ちょうど、堺からの帰路にあったとか、タイミングと運が良すぎる為、
家康は、事前に本能寺の変を知っていた。さらには、明智光秀の黒幕は、徳川家康である。」
という家康黒幕説の根拠の重要な一つとなっている。
(2)本能寺の変前後の伊賀越えの詳細
天正10年 5月15日(1582年):家康、安土城に来訪、光秀その饗応役と
なるが、突然堀久太郎に変更、光秀に中国出陣を
命令、坂本城へ向かう。この月、秀吉、備中高松城を
水攻め
同年 5月21日(1582年):家康、
安土を出発、京へ向かう。
26日迄、京、茶屋四郎次郎邸滞在
同年 5月26日(1582年):光秀、25日迄、坂本城、この日、丹波亀山城着
同年 5月28日(1582年):光秀、愛宕山の愛宕神社で連歌師、里村紹巴
(じょうは)らと連歌の会を催す
同年 5月29日(1582年):家康、1日迄、泉州堺着、今井宗久、津田宗及、
松井友閑等と茶会
この月は、29日で終わり
同年 6月 1日(1582年):信長、本能寺で茶会、
太政大臣・近衛前久
(さきひさ)、勧修寺晴豊以下、40人の公卿、僧侶、
地下人らを集め、名物びらきの茶会
同年 6月 2日(1582年):本能寺の変、
卯の刻、明智光秀の軍一万
三千、本能寺を急襲、信長自刃
同年 6月 2日(1582年):家康、早朝、堺を出発(このころ本能寺の変)
同年 6月 2日(1582年):家康、昼、京へ戻る途中、飯盛山まで来ると、
茶屋四郎次郎が駆けつけ、本能寺の変を知る。
以後、家康一行に加わる。
同年 6月 3日(1582年):家康、現在の京都府田辺町草内(くさし)、
木津川草内の渡し着、家康農民に変装、宇治田原の
山口城主、山口藤左衛門(多羅尾光俊の六男)等
護衛に加わる。すこし送れて出発した、穴山梅雪、
土民に討れる
同年 6月 4日(1582年):家康、現在の滋賀県信楽町多羅尾。甲賀衆、
多羅尾光俊の館着、手掴みで赤阪を食う。
同年 6月 5日(1582年):家康、御斎峠を経て、最大の難所といわれた
伊賀、加太峠越え、伊賀の音羽衆の襲撃を受ける。
同年 6月 6日(1582年):家康、伊勢白子。ここから海路伊勢湾を横切って
岡崎へ向かう。船中、鰹のたたきを、おかわり
同年 6月 7日(1582年):家康一行、岡崎城に到着。
詳細は、諸説あるがだいたいこんな感じである。
(3)ここまでの謎
@本能寺の変が家康黒幕説なら当時、家康と光秀が出会うチャンスはあったのか。
A家康は、安土に7日、京に5日、堺に2日しかいない。堺が短すぎるなぜ?
B6月2日に家康は、堺から京への帰路にあった。これは、偶然なのか。
C実は、堺と京を繋ぐルートと飯盛山は、はずれている。なぜ、家康は、迂回して、飯盛山にいたのか。
D家康は、なぜ「腹をきる」と言ったのか。
Eなぜ、脱出ルートとして、伊賀越えを選んだのか。
F御斎峠越えのルートに複数の説があるが、なぜか。
G家康一行を泊めたとか助けたという子孫が必要以上にたくさんいるのは、なぜか。
H木津川草内の渡しで、多羅尾光俊の六男、山口藤左衛門が護衛に加わったり、
甲賀出身の武将の和田定教(和田惟盛の弟)や、瀬田の唐橋を落として安土城を守った、山岡景隆・景久兄弟などが、護衛に加わるのはなぜ?
I武田氏の旧臣、穴山梅雪が死んだのはなぜか。
J伊勢の白子浜の他にも岡崎への船の出航地とする説が複数あるのはなぜか。
Kこの時の供をした人数が不明。10人〜30人?いや、それ以上?又は、途中で増えた?
Lこの伊賀越えルート周辺には、たくさんの三河出身者がいるのはなぜか。
その他
いよいよ、推理は核心へ・・・・・
次回へ続く
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