〇生涯最大の艱難、伊賀越えの謎〇
家康、生涯最大の艱難(かんなん)、伊賀越えの謎2
(4)家康にとって、"伊賀越え"のような事件は、初めてか?又、その背景
徳川家康という人は、その生涯をみると、武田信玄と戦った、
三方ヶ原の合戦等いくつかの例外はあるが、非常に慎重な性格である。
又、これは、数々の失敗(自分だけでなく信長、秀吉等の失敗も含めて)
から学んだということかもしれないが、
石橋を叩いても渡らないほど、慎重に慎重を重ねて、最後に天下を取ったという感想を否めない。
実は、この伊賀越えには、前例となる大きな失敗があったのだ。
それは、元亀元年(1570年)、信長と徳川の連合軍が越前一乗谷の朝倉義景を攻めた時、
信長の妹婿である、近江の浅井長政が裏切って
、織田連合軍は浅井・朝倉軍に挟み撃ちにされ、まさに"退路を断たれる"という事件があった。
この時、いち早く、浅井軍の裏切りを知った信長は、琵琶湖の西岸を、
朽木谷を通り、京都へ逃げ帰るのである。
この時、秀吉が殿(しんがり)を勤め、百姓上がりと言われる秀吉が、同僚から"武士"と認められ、
全軍の撤退成功の立役者となるのであるが、
この時、信長は、まだ、琵琶湖の西岸を、掌握しておらず、
家康も、例外ではなく、命からがらやっとのことで、京都へたどり着くのである。
以来、家康に限らず、誰でも、長躯遠征軍の時は、
撤退路の確保が重要だという、大きな教訓を得るのである。
例えば、後の天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの時も、家康は、秀吉との
対峙中も、退路の注意を怠らず、羽柴秀次らの別働隊が、
留守中の岡崎城を攻めようとした時に、みごと長久手で、これを撃退している。
又、城の縄張りにも、ろう城戦の時に、城外の撤退路の確保を用意するのである。
例えば、江戸は、東海道、中山道等皆、日本橋が起点であるが、
唯一、甲州街道は、江戸城の半蔵門が起点で、新宿の百人町をとおり、
千人同心の八王子を通って、甲州の甲府へ繋がっている。
これは、万一、江戸城が攻められたとき、甲州へ将軍を脱出させる為のルートの確保、
と服部半蔵などの伊賀忍者の住む百人町や、武田氏の遺臣を引き取った千人同心などに、
このルートを密かに守らせたと言われている。
又、江戸城と今の新大久保にある、皆中(みなあたる)神社は、
地下道で繋がっているという伝説まである。
又、家康に限らず、この時の秀吉の「中国大返し」も、長躯遠征時の撤退路の確保の準備を
事前にしていたからこそ、天下が取れたのである。
実は、家康は、信長を決して信用していなかった。
いつか、信長に自分は暗殺されるのではないか。と用心していたのである。
考えてみれば、家康の長男である信康は、信長の長男、
信忠より器量が上であった妬みから、信長の策謀により、切腹させられている。
家康の本心を察すると、信長は息子の仇であったのだ。
後日、関が原の合戦で、秀忠が遅参した時など「こんな時、信康が生きて居ればなあ〜」と、事あるごとに、悔しがるのである。
この事実の裏返しに、信長も家康を決して信用できないし、家康も信長を信用できないという関係であったのだ。
この「相手を信用しない。」ということは、戦国の世を生き抜くための、欠かせぬ戦国武将の条件であったのだ。
こう考えると多くのつじつまが合わないだろうか。ここで、今一度、信長と家康の両者の立場から整理してみたい。
(5)当時の信長の策謀
実は、信長は、家康を安土に招き、
京都や堺の見物をさせたのは、隙あらば、家康を暗殺する計画であった。
又、家康もそれを察知し十分に警戒し、用心していた。
信長にとって、家康は、同盟者、同盟者は、家臣ではない。いずれ、浅井長政がしたように、裏切るのではないか。
自分の子や孫の為にも、裏切られる前に、粛清すべしと考えても、不思議ではない。
その為、信長自身も、僅かな供回りだけで、京都へ向い、家康を油断させるのである。
それでは、暗殺者は、誰か、当時、機内に一万三千の軍勢を有した、明智光秀しかいないではないか。
実は、証拠がある。
@明智光秀の家臣の本城惣右衛門の"覚書"というものがあり、
この覚書に面白いことが書いてあるのである。
惣右衛門は、実際に本能寺に信長を襲った一人なのであるが、その覚書には、
「のぶながさまニはらさせ申事ハ、
ゆめともしり不申候。・・・・いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、
いゑやすさまとばかり存候。
=自害したのが信長様とは、
思いもよらなかった。・・・上洛していた家康様を襲ったと思っていた。」
とあるのである。
これは、当時の信長側の家臣からすれば、
信長が家康を、闇討ちしても、不思議ではないという意味ではないか。
A仮に、光秀が暗殺者だとすると、「信長が僅かな供回りで、京の本能寺に宿泊した。」ことをなぜ、
光秀が知り得たかという"なぞ"がとけるのである。
光秀は、安土で信長が京へ向う前に別れているのだから、普通なら知り得ないのである。
Bそれから、家康の一行には、安土から、長谷川藤五郎という信長の家臣が、
案内役として、付き従っており、実はこの藤五郎が、
家康の暗殺者だったという説がある。
又、そうでなかったとしても、家康暗殺の手引き者としての密命を受けていたとしても、不思議ではない。
又、家康が、「腹を切る」といったのも、何か芝居がかっていないか。
当時まだ、信長横死の確証もなく、万一生きていることを考えて、
長谷川の手前のお芝居だったと言えないか。
そうでなければ、信長の同盟者である、
家康が腹まで切らなくてもいいのではないか?
と、思いませんか。家康って役者ですよね。
ところが、結果として、信長は、家康の暗殺者となるはずの光秀に、逆に暗殺されるのである。
まさに、「策士、策におぼれる。」である。
これなら、すべての矛盾が解決できる。
(6)当時の家康の信長に対する用心
結論から言って、家康は、事前に、京・大阪・堺等で、退路を断たれたとき、敵中突破して、岡崎城へ帰還する時の用心に、
京・大阪・堺からの秘密の脱出ルート=伊賀越えルートを事前に確保し整備していたのである。
といったら、あなたは、「そんな馬鹿な」と言われるだろうか。否、「家康なら遣りかねない。」と納得するはず・・・。
この、ルートは、家臣たちにより何度も往ったり来たりの実験済みで、
多羅尾氏や加太氏などの廻りの豪族も懐柔済みであった。
又、三河の出身者をこのルート沿いの各所に配置して、用意万全であった。
そこへ、信長から遊びにこないかと誘いがある。
駿河支配の御礼の件もあり、出掛けることとなるが、信長が家康の暗殺を狙っているとの疑念が発生する。
かねてからの伊賀越えの撤退ルートの安全確保の為、家来を伊賀街道付近に配置して、万全を期す。
又、供回りに伊賀忍者の服部半蔵を加える。たぶん、出発する時は、10人たらずの供回りも、岡崎に着いたころは、
数百人の護衛がついていたのではないか。又、これを何組かに分散すれば、複数のルート伝説も理解できますよね。
(7)この事件のキーマンは誰か。
この事件の要所に、商人の影がちらつくのに、お気づきであろうか。特に、京都では、茶屋四郎次郎宅に宿泊し、
5月29日から6月1日 堺では、今井宗久や津田宗及などの商人と茶会を催す。
今井は、信長の御用商人で、津田は光秀の御用商人であり、共に、武将に取り入り、軍事物資を調達する今で言う、
政商であり、総合商社であった。
又、商人にとって、次の天下人は、誰か。
光秀か、家康か、秀吉か誰に取り入るか、その為の先行投資が勝負であった。
これらの商人たちは最新の情報通である。その中で、いろいろな噂を耳にしたのである。
例えば、
@信長は、安土城に惣見寺という寺を建て、商売繁盛、家内安全の功徳があると言って、人々に、お参りをさせた。
しかし、この寺のご神体は、生きた信長自身であった。とか、
A信長の政権構想は、自身を生き神様として崇拝させるような、とんでもないものだ。とか、
B信長は、朝廷からは、「次の三職のうち、どれでも、お好きなものを、どおぞ」と言われていた=三職推任
(1)征夷大将軍(幕府首長、武門の棟梁)
(2)関白(天皇を補佐する特別な官位)
(3)太政大臣(律令制による最高官僚)
しかし、信長は、全部ことわるのではないか。とか、
C最近、光秀が信長に意見をしたが、逆に打ち据えられたとか、光秀と信長の仲が悪いとか、・・・・・・
Dもしかすると、5月28日に光秀が、愛宕神社で、里村紹巴らと連歌の会を催したときの歌
「ときは今 あめが 下しる 五月かな」 の噂を聞いたのではないか。
こんな、噂話の中に、家康は、「必ず、光秀が、信長に謀反を起こす。」
と感じるもの又は、確信があったに違いない。
又は、服部半蔵などの、忍者の情報収集により、深夜に行軍する
目的不明の明智軍の動きを家康に伝えてきたのかも、しれない。
そして、突如、6月2日の早朝、予定よりも早く、堺を発つのである。
もう、この時点で、伊賀越えルートで、岡崎迄、逃げるという方針は決定していたのだ。
これらにより、家康は、光秀の謀反の動きを事前に又は、同時に知っていたに違いない!!!
こう考えると、すべての謎がとけませんか?
最後に、「神君家康、生涯最大の艱難(かんなん)、伊賀越え」のキャッチフレーズは、うそ。
当時、もっとも安全な撤退ルートであった。
家康にすれば、三方ケ原の負け戦ではないので、後々、
さまざまな尾ひれがついて、手柄話、成功話として伝わったということである。
もう一つ最後に、この話の中で、一番得をしたのは、誰だと思いますか?茶屋四郎次郎や今井宗及などの商人であった。
もしかすると、本能寺の変の黒幕は、これらの商人だったりして・・・有り得るよね!!!???・・・
信長を裏切った光秀を、さらに裏切った商人たち・・・???
とりあえず、完ということで・・・
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