●大谷吉継は、なぜ石田三成に味方したのか?2●
(5)関ヶ原の合戦は、大谷吉継の戦略ではないか?
西軍健闘の以外な真相とは・・・・・?
私はかねてから、
9月14日の関ヶ原の合戦の前日の夜半から15日の未明における西軍のいわゆる、
”大垣城から関ヶ原への陣替え行動”は、
吉継の戦略ではないか? 少なくとも、
雨の降りしきる深夜に、
完璧な鶴翼の陣形に西軍の配置及び、これをプロデュースし得たのは、
大谷吉継しかいないのではないか。
その為に吉継は・・・・・・・・・と、考えている。
一般的には、
@家康が赤坂着陣の日と時を同じく、小早川秀秋が当時松尾山に布陣していた西軍の伊藤勢を追い出して、
着陣したことで、小早川謀反の噂が流れ、三成は、小早川勢を西軍に引き止める戦略を考えねばならなかった。
A同じく、南宮山に布陣する日和見の毛利秀元、吉川広家も、なんとか西軍に引き止め、合戦に引き入れたいという思惑があった。
B家康が苦手な(大垣城の)城攻めから得意の野戦に持ち込む為に、
”東軍が大垣城を置き去りにして、三成の居城であり京・大阪の入り口にあたる
佐和山城を攻撃する為に軍勢を進めるらしい”
という噂を西軍側に故意に流し、
この謀略に、石田三成がまんまと乗って、西軍が大垣城を出て、関ヶ原に陣替えしたと言われている。
これらの経緯は、関ヶ原の合戦を扱った多くの本が、だいたい、このような解釈をしており、なかば定説化している。
ところが、実は、ここで一つ
大谷吉継の行動が、見落とされていないか!?・・・・
吉継は、9月15日の関ヶ原の合戦の13日前の9月2日から、
中仙道と北陸道の交わる交通の要所である、不破の関付近の山中村に
藤古川を前にして布陣しており、三成と行動を別にしている。
想像するに、・・・吉継は、当初からここ関ヶ原付近が、西軍の防衛ラインの最前線
であり、”必ずここで、東西両軍の一大決戦が行われる!”・・・であろうことを想定していたのではないか。
いったい吉継は、13日間もの間、ここで何をしていたのだろうか?
これを裏付ける資料はない。
想像するに、吉継は、
陣城
(じんじろ)を造っていたのではないか?
実際、4,000人×13日=延べ 52,000人あれば、さらに近隣住民をかき集めれば、一大土木工事ができる。
陣城とは何か、長篠の合戦を思い出して頂きたい。
長篠の合戦は、一見野戦のようでいて実は、野戦ではない。
織田・徳川連合軍は、武田の騎馬隊に対抗する為に、馬防柵と言われた、三段の柵や逆茂木を配置し、その前には、空堀をほり、
武田方得意の騎馬軍団を柵際迄、引き付けて、
”三千丁の鉄砲の三段撃ち”という新戦法で、騎馬隊の出鼻をくじいたのである。
つまり、見かけは、野戦でも、武田方からすれば、結果的に、城攻めだったのだ。
吉継の作戦もこれと同類で、これをさらに発展させて、強固な陣城を造っていたのではないか。
例えば、複数の陣地を柵や、土嚢で囲み、空堀を堀り、所々に櫓を建て、
塹壕や武者走りで繋いだり、
敵兵を袋小路に誘い込んで、引き付けて、
周りから大量の弓・鉄砲で討ち取る仕組みを造ったり、
武者返しや、行き止まり、落とし穴、さまざまな仕掛けを造り、難攻不落の要塞を造っていたのではないか。
吉継は、いわゆる迎撃戦、インターセプター戦に徹したのではないか。
これを知らずに、がむしゃらに突撃を繰り返した、藤堂高虎などの東軍は、
思いもよらぬ反撃にさぞ、面食らったことだろう。
だいたい、城攻めには、敵方の3倍の兵力が必要である、これなら、大谷軍4千の寡兵で、
東軍の藤堂高虎、京極高知、寺沢広高などの軍勢一万以上の敵兵とも互角に戦える。
但し、さらに、小早川秀秋などの裏切りにより一万五千以上の新手の敵兵を受けては、
ついには、防御の限界点となってしまったということではないのだろうか。
これが、大谷軍の4千の寡兵で2万余の東軍相手に、以外な奮戦の真相なのかもしれない。
そして、
小早川勢や毛利勢を西軍に引きとめ、加えて、
この陣城作戦を成就する為に、三成に使者を送り、
西軍を大垣城から、関ヶ原に陣替するように、誘い出したのは大谷吉継ではないか。
さらには、石田三成の笹尾山、宇喜多秀家の天満山に、
予め柵を張巡らして陣地構築を施したのも、大谷勢ではなかったのか。
つまり、西軍はいつの間にか、味方の戦略にはまり、
大谷吉継の一大迎撃作戦に引きずり込まれた。
これなら、西軍大健闘の”なぞ”が解ける。
つまり、結果的に敵方、東軍10万を相手にしたばかりではなく、一人で、味方の西軍10万をも相手に、
思う存分、采配を振るったということではないか・・・
秀吉の言った
「一度、吉継に百万の軍勢の采配をまかせてみたい。」が、ここで、実現したのかもしれない。
いずれにしても、大谷軍と戦い必死の攻防戦を目の当りにした、藤堂高虎は、
後に、吉継の墓を建てているし、家康もそれをとがめたという記録も無い。
”日和見、迷い、裏切り”
の関ヶ原の合戦の中で
「いやあ、大谷殿は、あっぱれなものよ! 武士の鑑ではないか!」
と、家康も、
東軍の諸将も、関心し絶賛したであろうことは間違いない。
家康も、「裏切りは、有り難いが、裏切り者は、嫌いだ。」という考え方で、その後の論功行賞を行い、その結果は、
日和見の毛利輝元は、防長2国に国替えとなったり、裏切り者の
小早川秀秋は2年後に狂い死にし、
お家断絶(家康方の陰謀説もあり)となり、又、東軍の中で最も勇敢に戦った、
福島正則でさえ、後に難癖を
付けられて、改易となったのは歴史に見るとおりである。
さて、関ヶ原の当日、小早川秀秋の裏切りにより、小早川軍一万五千の軍勢などが雪崩を打って攻め寄せ、
ついには支えきれなくなると、
与力の平塚為広から、次のような辞世の句が届けられるのである。
名のためにすつる命は惜しからじ
ついにとまらぬ、うき世と思えば
これに対して、吉継は、
契りあらば、六つのちまたにまてしばし
おくれ先だつことはありとも
「今から、私も行くから待っててね!」と、吉継も辞世の句を返すのである。
あれ!? この句は、石田三成に宛てたのではないの??
本当は、大谷吉継と、平塚為広との友情の方が深かったのかもしれませんよね。
う〜ん、そうかもね!いや、絶対そうだよね!!
”名の為にすつる命は惜しからじ”
・・・大谷吉継と、平塚為広は、
敗軍の将ではあるが、勝敗や生死を超えたところの晴れ晴れと納得のいく
満足の生涯、幸せな一生だった!・・とも・・思えませんか。
とりあえず、完!!!
歴史の謎解きメニューに戻る