★石田三成は、合戦が苦手って本当?2☆
(1)三成大砲で打つの段
ある日、石田三成は、なんとか自分の手柄で、
忍城を落とそうと、城の本丸を狙い、楼や櫓を焼き払おうと、三百匁の大玉を、
”国崩し”という大砲で打つのである。
ところが、狙いが外れて、
下忍の薬師堂に砲弾が落ち、火の手が上がるのである。
城方は、「寄せ手は必ず、城中に異変有り」
と思って、攻めてくるに違いない。
と、持ち場の主将に軍使を走らせ、用心したのでした。
一方、三成は、砲弾が城中に落ちたと思い、
「これ、我が功なり!」
と、兵を進めたが、途中で、城中ではないことに気付き、兵を引き揚げたのでした。
ところが、皿尾口の寄せての中江、野々村らは、城に火の手が上がったと思い込み、
「これは、城内に謀反人が出たか、寄せての兵が火をかけた。」
と、勘違いし、
「城攻めの一番乗りは、この口なり、遅れるな、進め進め!」
と、塀際まで、攻め寄せたが、
城方は、
「待ってました。」
と用意していた鉄砲、弓矢で、応戦し、
たちまち、死骸の山となったのでした。
長束正家の攻め口からは、その方角がよく見えたので、
「なんの相談もなく、これ、まったく三成の出すぎなり。」
と、諸方の寄せ手に軍使を走らせ、
「うかつに進むな!」
と触れまわったのでした。
そもそも、この薬師堂、ご本尊の薬師如来は、奥州の藤原秀衡の守り仏で、
七堂伽藍の古い寺であり、城方は大いに怒り、
「石田三成の為したる事で、かかる古い霊場、経巻、仏具が灰になったのは、
まことに、あさましきこと。いつしか、その身に天罰が下るであろう。」
と、皆、涙を流して語り合ったのでした。
(2)水攻めの段
石田三成もついに、
「忍城、
侮りがたし! 力攻めは無益か・・・。」
丸墓山の小山に登り、
忍城を眺めると、備中高松城の水攻めを思い出し、利根川と荒川の水を、堤を築いて引き入れることを思いつくのである。
早速、軍議を開くと、三成は、
「領民を城中に入れたのなら逆に、
水攻めが有利、兵糧も水につかって腐り、にわかに、兵も弱るであろう。」
これに、大谷吉継は、
「このような水城は、
日頃より洪水の備えは有ろうから、無駄に財を使うのみ。」
又、浅野長政も、
「水攻めは、土地の高きところより、
低きところを攻めるもの。城の周りに高台少なく、寄せ手の陣地も低地なり。」
と、反論するも、三成は、
「消極策ばかりでは、謀議はならず!
今、関東に残る北条方の支城は、あと僅か、
援軍が来た後に、忍城が落城したら、援軍の手柄となり、我等の手柄とならず、今までの苦労も報われぬ。」
又も、長束正家が三成に
同調して、軍議は、水攻めと決し、作戦変更となるのである。
6月9日利根川と荒川の水を引く為、
城の廻りに長大な堤を築くという大工事に取り掛かるのである。
この時、堤を築く為に、作業に加わる近隣の領民に昼は、永楽銭六十文と米一升を、
夜は百文の永楽銭と米一升を与えたのである。
この、昼夜の突貫工事には、近隣の領民はもとより、なんと、
攻められている忍城内の領民も加わり、貰った銭を米に替え、城内に持ち込み、
(たくましいなあ〜 ・・・・)なんと五日で完成するのである。
(現在も一部、石田堤として残っている。)
もちろん、これにより、城内の兵糧が、増えたことは、言うまでも無い。
このころ城方は、水攻めと聞いて、大笑い。取りあえず、筏を作ったり、
兵糧を水塚(=みつか・・この地方の洪水に備えた高台)に運んで、準備万端。
いよいよ、水攻めの段。城の周りは、どんどん水かさが増して、哀れ、忍城は水没か・・・。
高台の丸墓山で、一面広大な湖となった忍城を一望しながら三成は、
「いずれ、馬の”かいば”も尽きたなら、人をも馬が食らうであろう。」
と、手を叩いて喜んだのでした。
一方、城方は、以外にも深いところでも、
ひざの辺りまで、水が押し寄せたが、かねて準備怠り無く、
「これなら敵も攻め込むまい。」
と鎧も脱いで、船や筏に乗り、
「これぞ、まさに忍の浮き城」
と、飲めや、歌えや、踊れやのまずは、陣中
慰労の酒宴となったのでした。
もちろん、子供は大喜びで、魚とり。唯一、困ったことは、数万匹の蛇に襲われたことでした。
(3)城方の逆襲の段
そこで、城方は、ある秘策を思いつき、僧侶や神主に雨乞いの密儀をさせて、雨を待ったのでした。
折りしも、大雨が降った晩。水練の巧みな川漁師を十数名集めると、夜陰にまぎれて、堤を一機に切り崩したのです。
水は真っ先に、石田軍の陣地に押し寄せたので、百人余りの死者が出て、
しかも、偶然、陣所に居合わせた三成も溺れて、
九死に一生!。散々な結果となったのでした。
一方、城方は、
「観音堂の報い!」と喜んだのでした。
(4)ちょっと解説
郷土に近いところの話なので、ちょっと長くなりましたが、
実は、正直なところ、水攻めなどしないで、三成方は本気で力攻めにすれば、
あと2.3日で、主力部隊の欠けた忍城など落城したはずなのです。
この三成の水攻めは、秀吉に対する深謀遠慮が、原因なのです。
当時、本城の小田原城は、ニ十万とも三十万とも言われる大軍に、
海と陸から豊臣方に囲まれて、蟻の這出る隙も無く、長期籠城戦となっていたのです。
秀吉も、茶の湯や温泉を楽しんだり、すっかり、物見遊山の長期戦だったのです。
@ここで、支城の一つ落としたところで、
手柄にもならず、新たに攻めるべき城はもはや関東には、なかったのです。つまり次の仕事が無いので、
急ぐ必要がまったくなかったというのが真相なのです。
A逆に秀吉より、早くに攻め落としたら、無粋なやつと言われかねないのです。
B「窮鼠猫を噛む」こんな中での、力攻めは、無駄な血を流し、自兵をも損するだけで、意味がないのです。
C味方の兵も連戦に次ぐ連戦で疲労していた。
Dさらに、城主の成田氏長は、後に、豊臣方に内通し、小田原城の開城に、
力を尽くすという小田原城内でのキーマンなのである。
Eそこで、三成は、これらのことから、急ぐ戦でないことを理解して、
秀吉の備中高松城の水攻めを模写して、忍城を水攻めにするのである。
はっきり言って、秀吉に対するゴマすりと時間かせぎ、
「戦やってます」のアリバイ作りであった。
秀吉も、自分に対するゴマすりも、すべてお見通しで、
「三成め、わしの真似をしおって・・・。さて、どうなるか、楽しみだのう・・・。なに、失敗した?
三成も、まだまだだのう・・・ハッハッハッー。」
という程度の”お茶飲み話”の余裕の小田原征伐だったのだ。
(5)結論
こういう、状況の中での忍城攻めは、大局的な戦略的観点からすれば、正解であったのだ。
結果として、小田原城は、成田氏長らの説得により降伏開城し、その後、城主氏長の命により、7月18日忍城は、開城するのである。
結果、無益な血も流さず、めでたし、めでたしということであった”はず”なのだ。
しかし、この事件以後、
「三成は、長大な堤を築くような、
官吏としての能力はあるが、武将としての器量には欠けている。」
と、いう評価となるのである。
この汚点が、後の関が原の合戦にも影響したといわれている。
後日、福島正則や加藤清正など、この件を引き合いに三成をバカにするという話がある。
又、関が原の合戦で、西軍の諸将からも、三成の戦略が、浸透しなかった原因ともいわれている。
これは、間違いではないか・・・。たぶん、結果を知っている後世につくられた、つくり話ではないか?・・・(そうあってほしいのだが)
なぜなら、
@この時戦った、長束正家、
大谷吉継、真田昌幸らは、(浅野長政以外)後に、同じ西軍となるメンバーなのだから。気づきましたか?
Aしかし、”溺れかけた”とは・・・トホホ・・・やっぱり”戦べた”かな〜・・・。
さらに、関が原の合戦時、西軍に甲斐姫がいたらなあ〜と思ったのは、私だけ? きっと甲斐姫が強すぎたんだよね。
その後の甲斐姫の話はいずれ又・・・・。
Bまたまた、さらに、この忍城の水攻めが関が原の”大垣城の水攻め”の話へと繋がるのである。
これは、確か。覚えておいてね。
Cそれから、もう一つ、石田三成と大谷吉継は、意見が合わないのに本当に親友なの?? その他長束正家や他の将ともチームワークが
悪いですよね。三成には、人を信頼しないとか協調性欠如とか自己中心的な
性格上の問題点が、
確かにありそうですよね。
D最後に、この城の正しい攻め方は、・・・・・・・
まず、一番に、水路の川上をせき止めて、水を抜き、
次に、水路や深田に、葦草や土を入れ、埋め立てて、平野にし、踏み固めながら、
四方から陣地を築きながら、本丸に迫れば、城方の兵は
「おみごと。恐れ入った。」
と、その勢いはしだいに弱まり、降伏開城という道もあったはずなのです。
こんなことは、近隣の古河、佐野や館林の降将の意見を聞けば、
すぐに、分かったはずなのです。戦略的には正解でも、
戦術的には失敗だったのかもしれません。
三成は、人の意見を聞かず、まったく誤った反対の戦術つまり、
水城にさらに水を注いで、さらに強固にしてしまったのです。念のため。
”三成の弁護になってない”との、ご指摘ですか? おかしいなあ〜・・・?
今日は、ここまで、とりあえず完
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