◎本能寺の変の黒幕は誰◎




戦国のクーデター本能寺の変の概略


天正10年(1582年)6月2日未明、夏の夜風を震わせて、本能寺の変、勃発。
 天下統一に、あと一歩と迫った織田信長を、家臣明智光秀が、京都本能寺に急襲したのでした。
「殿、謀反、敵は水色桔梗の旗印、 明智光秀でございます。」と、森蘭丸が叫ぶ。信長、
「・・・是非におよばず・・・!」と、一言。
 その後、弓矢を取り槍を取って奮戦するも、矢もつき敵の槍を肘に受けては、もはやこれまで、 寝所に入り寺に火を放ち、
「♪人間五十年〜♪下天の内をくら ぶれば〜」と有名な「敦盛」の舞を舞い紅蓮の炎の中、いさぎよく五十年(正確には49年)の生涯を 閉じたのでした。・・・とは、テレビの大河ドラマや小説により、すっかり出来上がったイメージ。
 ところが史実は、弓矢を取り槍を取っての奮戦は、眉唾らしい(ちょっと残念)。 さらに、敦盛の舞を舞ったなど、いったい誰が見たの? と、いう話だよね。唯一、事実なのは、信長を襲った首謀者は、明智光秀ということだ。 "間違いない"
 たぶん歴史とはこんなもので、今に伝わる歴史の細部は、 ほとんど"うそ"であろう。


(伝 明智光秀画像)

 まあ、枝葉末梢的なことは、置いといて、ここでの問題は次の2つに搾りたい。

(1)犯行の動機は何か。遺恨説か、 絶望説か、恐怖説か、単に天下が欲しかった=野望説か、○○説か?
@遺恨説は、数々の逸話をのこしている。例えば、武田勝頼を滅ぼした後の宴席で 光秀が、「我々も苦労した甲斐がございました。」と言うと、信長が、「己は 何をしたか?」と満座の席で打ち据えたとか、
丹波の国平定の折に、信長の許可無しに波多野氏と和議を結び、義母を人質にだしたが、 信長の怒りを買い、母親が、敵に磔にされたとか、
徳川家康の接待係を仰せ付かった時に 鮒寿司を出して、「腐ったものをだすのか。」と信長に叱責された。とか、
中国出兵の命令を受けたときに、丹波・丹後の現領地を取り上げて、敵地の出雲・石見を 切り取り次第で与える(国替えの話)等の話が残っているが、ほとんど、 後の世に、光秀をおとしめる為の創作であろう。

A絶望説や恐怖説は、2年前の天正8年に重臣の 佐久間信盛親子が、信長に追放されている。 当時、信長は、織田軍を5方面軍に分割して、それぞれ5人の重臣に率いさせていた。佐久間信盛は、摂津の石山本願寺攻めに。柴田勝家は、越後上杉に対する北国方面軍として北の荘に。羽柴秀吉は、中国の毛利攻めに。滝川一益は、関東で北条氏と対峙。
 そして、明智光秀には、丹波・丹後平定軍として割り当てていた。

 そして、石山本願寺と和睦すると、突然信長は、佐久間信盛に対して、本願寺攻めに何年も無策な戦いを続け、何の相談もなかったとか、十九ケ条に及ぶ弾劾状を突きつけて、結果、高野山に追放、又、宿老の林通勝も、20年前、弟の信行の家老時代に、信長に反旗を掲げたことを理由に、難癖を付けて追放してしまうのである。
 この事件は、他の家臣、特に光秀にとって、まさに背筋の寒くなるような事件であった。
 そもそも、光秀は、流浪の室町将軍 足利義昭(足利義輝の弟)を将軍に奉じて、 室町幕府を再興することがが目的で、信長に近づいた者であった。
 信長も、これを上洛する大儀名分として、足利義昭を利用したが、 上洛して後、義昭が、その分をわきまえず勝手なことをしたので、 京都から追放してしまったのであった。
 つまり、佐久間信盛も、 林通勝も、足利義昭も、 信長は、利用するだけ利用して、最後は、ぼろ雑巾の如く打ち捨ててしまったのである。
 光秀は、織田家中では、新参もので、信長の家臣となった頃はすでに、四十代も半ばであったと言われている。 しかも、同僚でありライバルの羽柴秀吉は、 草履取りから出世した、信長のお気に入りである。
 世渡り上手な秀吉と、インテリ・堅物の光秀。秀吉と光秀は、水と油なのである。
 とても光秀には、秀吉のように信長のごきげんを取ったり、信長に甘えたりする業は無い。
思えば、働かされるだけ働かされて、 次に捨てられるのは、自分か、もう自分の存在価値は無いのでは・・・
 と、光秀が思い悩み、これが謀反の動機となることは、大いに有り得る。
 但し、強く言いたいのは、戦国時代の武将は、 現代人の我々と違って、そんな "やわ"ではない と、いうことである。常に、戦場を駆け巡り、 命の遣り取りを生業(なりわい)としているのである。
 これだけが理由ではない。

 もっと、光秀にとって、 本質的なことが真の理由ではないか。 光秀にとって我慢ならないことが。


(2)犯行は単独犯か。 共犯者(黒幕)がいるのか。いるとすれば、いったい誰なのか?
 現在、ほとんど黒幕説が主流で、前将軍足利義昭か、 ”朝廷と公家” だと言われている。中には、秀吉「中国大返し」 があまりにみごとなので、秀吉黒幕説もある。
 はたして、そのとおりだろうか。その後の結果から見て、 だいじな人を忘れていないだろうか。"あ・の・人"を。



次回へ続く


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