☆金閣・銀閣に込められた謎★




金閣寺と銀閣寺に込められた謎

金閣寺と銀閣寺、正式には、鹿苑寺(ろくおんじ)と 慈照寺(じしょうじ)である。 ここでは、分かりやすく通称の、金閣寺銀閣寺で話を進めたい。
 思えば、中学・高校と修学旅行は、京都だった。 その中で特に、池ごしに見た絵葉書とまったく同じという金閣寺が忘れられない。 金閣寺を造営したのは、室町幕府の三代将軍足利義満であり、 銀閣寺を造営したのは、 義満の孫八代将軍足利義政である。
 金箔を張り巡らした、 荘厳華麗な金閣寺。 一方、禅の心を表した墨絵のような ”しぶい” 銀閣寺。 それだけではなく 金閣寺・銀閣寺には、それぞれ ”深い意味” と ”深い想い” が、 込められていたのだった。
 それから、私も長く誤解していたのですが、寺院はすべて 民衆の安寧の為に造られたもの…と思っていたのですが、金閣寺・銀閣寺とも、 もとはといえば義満・義政の山荘(私邸・別荘)として造営され、 死後に寺となったということなのです。
 つまり、この金閣寺と銀閣寺は、義満・義政という、  ”主(あるじ)一人の為だけ” に、 造られた建物なのです。 これだけでも、驚きでしょ!  こんなことは、どのガイドブックにも書いてないのだから。(・・・もしかすると書いてあるかもしれません。)

 この金閣寺と銀閣寺の2つの建物の対比(=コントラスト)は、実に面白い。 特に、後から作った義政は、祖父の 義満に対抗して銀閣寺を通して、ことごとく対比の芸術を作ったに違いないのです。 対比とは何か?、対比とは、批判であり、嫉妬にも似た 義政の”美への想い”が銀閣寺に込められていたのです。
 この生まれながらの2人の将軍は、性格も又、周りの環境も大きく違っていたのだった。
 この二人は、いったい何を想い、何の意味があって 金閣寺・銀閣寺を造営したのだろうか・・・?  時代は、そんな室町幕府を置き去りにして、 応仁の乱から、ますます混迷し、戦国時代へと橋渡しのように繋がっていくのである。 あなたは、そんな金閣・銀閣を見て、いったい何を想い、何を感じるのだろうか・・・・。




足利義満の野望=義満の見果てぬ夢

 学校の歴史の授業で習う足利義満といえば、 勘合貿易(日明貿易)と北山文化に代表される 金閣寺である。 勘合貿易では、中国の明に主に刀剣(日本刀)を輸出し、一方明から銅銭(永楽通宝)を輸入し、莫大な富を築くのだった。
 出雲地方は、良質な砂鉄の山地で、刀剣作りは、仕事の丁寧な日本人の得意分野だったのです。 軽くて、丈夫で、よく切れて、しかも、決して折れない刀とは、相反する矛盾の要求である。 きっと中国人も日本の高度な技術に、 「いい仕事してますね・・・!」と、関心したのだろう。
(重くて、弱くて、もろくて、切れない刀は誰でも作れる。つまり、日本刀はさまざまな矛盾の要求に絶妙なバランスで作られ、さらに 芸術性をも兼ね備えた最高傑作なのです。このように、矛盾の要求を追及するという日本人の美意識は、日本人の精神の基本といえるようなものとなっている。例えば、ゼロ戦のように・・・。)

 教科書に書いてないのは、ここから先の話で実は・・・義満は、天皇になろうとした人なのです。 さらりと言ってしまいましたが、これは転地がひっくりかえるような大変なことなのです。
 義満は、室町幕府の絶頂期に将軍となり、勘合貿易により 莫大な富を得ると京都室町に、「花の御所」を造営し、 (本来、「御所」とは、天皇の住まいの尊称で、義満は、自らの住まいも「花の御所」と呼ばせた。) 又、明の永楽帝から「日本国王」の称号を得るのです。義満にとって、 この時点で、気持ち的には、すでに天皇の地位を超えていたのでした。

 次は、当然のごとく、実質的にも天皇をしのぐ地位を得たいという 欲望にかられた野心家であり策謀家であったのです。
 まず、義満は、南北朝の動乱に乗じて、南朝の後亀山天皇に、 「三種の神器(さんしゅのじんぎ)を北朝側の後小松天皇に渡し、皇位を譲って頂きたい。 その代わりに、次の天皇は、南朝側から出して頂きたい。
 つまり、これ以後は、南北両朝から交代で天皇を出しましょう =両統迭立(りょうとうてつりつ)の時代に戻しましょう。」 と話を持ちかけて、南朝方をだまして1392年に南北朝を統一するのです。
・・・ここんとこ、 教科書に、ちゃんと書いてよ!
(手法はともかく、争乱の火種が一つ消えた意義は大きい。 もし、南北朝の統一がならなかったら、 ぐちゃぐちゃの戦国時代は、さらに永く続いたはずだと思うのだが・・・。)

(そもそも、南北朝の事の始まりは、88代、後嵯峨天皇の後継者争い以降、 持明院統の89代、後深草天皇、次に、大覚寺統の90代、 亀山天皇と、持明院統と大覚寺統の両統が交代で天皇を出そうと約束したが、 大覚寺統の96代、後醍醐天皇が、 「建武の新政」の流れから、足利尊氏との抗争により、 三種の神器を持って吉野に逃れたことが、原因だった。)

 北朝の天皇側に恩をうった義満は、 これを足がかりに、さらに後小松天皇に近づくのです。
 応永元年(1394年)、義満は、将軍職を子の義持にゆずって 太政大臣となり、 人としての最高位に昇りつめるのです。 そして、後小松天皇の母が崩御すると、 義満の妻、日野康子を、 准母(じゅんぼ=天皇の仮の母)とすると、 自分の次男、義嗣を次の天皇にするために宮中で、 立太子の儀式をし、実質的な皇太子とし(天皇になる為には、 順序として、皇太子にならなければならない又、兄弟の皇位継承は、一般的で普通の話)
 ついには、死後ではあるが、 朝廷から太上天皇の称号を授かり、上皇となるのである。
 もし、義満が生きていれば、 子の義嗣を天皇にし、義満は上皇として院政を布き、 足利家の皇位乗っ取り計画は成功したかもしれないのです。
事実、義満の位牌には、 この鹿苑院太上天皇の戒名が刻まれているのです。

金閣寺の話にもどすと、
 応永4年(1397年)、義満37歳、京都北山に、 北山殿(今で言う別荘or明の外交使節受け入れ時の迎賓館)を造営し、 義満の死後、鹿苑寺(通称金閣寺)と名付けられたのです。 創建当時は、紫宸殿、公卿間、護摩堂、天鏡閣、舎利殿、泉殿、看雪亭などの建物が立ち並ぶ一大伽藍だったのです。
 応永15年(1408年)、義満急死、その後、子・義持が生前、 父・義満が弟・義嗣を可愛がったこと (後小松天皇の次の天皇にしようとしたこと)への嫉妬(又は、恨み)により、 舎利殿(金閣寺)を残して ことごとく破壊させ、弟の義嗣をも暗殺してしまうのです。
 さすがに、金閣寺だけは、美しすぎて破壊できなかったのかも・・・・。
この金閣寺は、
一階は、公家風の寝殿造りで、法水院(ほうすいいん)
二階は、武家風の書院造りで、潮音洞(ちょうおんどう)
三階は、中国風の禅宗様式で、究竟頂(くぎょうちょう)と、言われている。
 つまり、公家風と武家風と中国風の混合式の建物だということなのです。 しかも、金箔を張り巡らしたのは、二階と三階、一階は、様式は公家風の寝殿造りでありながら、実は、質素な白木造りなのです。
ね!ここからすでに、不思議でしょ! なぜ?

 「一階は、権威だけで、実体の無い粗末な天皇や公卿を軽蔑して現しており、 二階は、公卿よりも立派な武家社会を現し、 さらに三階は、中国明の永楽帝から「日本国王」と認められた義満自身を現している。」という、説があります。
 へーえ!!20へーえ!

 又、「足利冶乱記」には、「天皇の行幸を仰ぐ時に、庭に金銀の造花を、撒き散らした。」とか、 「相国寺塔供養記」には、 「玉を敷き金をのべて、造り整えさせ給ふ」とか、「西方浄土、極楽もかなふべからず・・・」と書かれており、 その豪華さが偲ばれるのです。
 義満の逸話に、家臣に、「この景色はすばらしい、切り取って都へ持ってまいれ!」 と言ったとか、 なんとなく、この人なら金閣寺を造ったのも分かる気がしますよね。
 それから、北という方角にも特別な意味があって、中国では、天帝とは、北極星を意味していて、 決して動かない星として、最高の地位の象徴なのです。 したがって、中国皇帝の皇居は、都の真北にあるのです。
 義満は、皇居よりもさらに北のこの地に金閣寺を建て、まさに天帝きどりで我が世の春を謳歌していたのでした。

 ところが、義満による皇位簒奪計画も、後一歩というところで、1408年、5月 義満は、 突然熱病に犯され、急死していまうのです。 (なんだか、平清盛の最後と似てますよね? 死因は、風邪をこじらせた後の"くも膜下出血"説が有力。・・・5月に"風邪"??)
 まさに、天皇側にとっては、危機一髪の大ピンチだったのです。 これが、病死か、○○側の毒殺による暗殺かという、 ミステリーであり、 死後に上皇にしたのも、義満の怨念を鎮める為という説もあるのです。
 以上、一言で言えば、「義満の壮大な見果てぬ夢が、 この金閣寺に込められている。」ということなのです。

いよいよ、次回は、銀閣寺の謎へ


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