☆金閣・銀閣に込められた謎2★




銀閣寺の謎と、足利義政の想いと恨み

 一方、足利義政は、1441年 6歳の時に、 父である6代将軍足利義教(よしのり)が目の前で家臣、 赤松満祐(みつすけ)に殺される。(嘉吉の乱(かきつのらん)) その後、兄の7代将軍義勝(よしかつ)が病死し、14歳 で1449年8代将軍となる
 その後、弟の義視(よしみ)に将軍職を譲ろうとするが、 妻の日野富子に長男の義尚(よしひさ)が生まれると、 この二人の後継者争いに管領畠山氏などの相続争いと、富子と結んだ山名宗全と 義視の後見人、細川勝元の有力大名 の勢力争いも絡んで、1467年京都を舞台に11年も続く内乱となるのである。 これが応仁の乱である。(ややこしいけど分かった?)
 ただでさえ南北朝の動乱に加え京都のほとんどが焼き尽くされたという大乱により、 疲弊した民衆の生活は、悲惨そのものでした。
 しかし、義政は、終生、形骸化していく室町幕府の権威 という現実問題を理解することなく政治に目もくれない 形だけの将軍だったのです。 当然のごとく、「将軍として自分は、何をなすべきか」など、考えることは、なかったのです。
 これは、義政一人の責任かというと、それも酷ではあるが、 暗愚な将軍ほど罪深いものはなかった
のでした。



 30代で世俗的野心をすべて捨て去ったといわれる義政は、妻も子も捨て、 禅と、酒と、月見と、花見と、茶道と、和歌の道へとひたすら逃避行していくのです。
 そして、義政は、京都東山の地に、 祖父義満の北山殿(金閣寺)に対抗して、当時、浄土寺の墓地であった場所に無断で東山山荘(銀閣寺)の造営を開始し、 文明14年(1482年)に完成するのです。当然、浄土寺から 「墳墓をうがつなど仏罰が下る」と抗議されても、聞く耳など無かったのです。
 なぜ義政は、墓地の上に山荘を造営することにこだわったのか・・・ たぶん金閣寺の見るからに きらびやかな極楽浄土に対抗して、義政は、墨絵の美を意識をして 銀閣寺を通して、さらに、地獄の上の極楽浄土 を具現化しグレードアップしようとしたのかもしれませんよね。(とんでもない、勝手な理屈だとは思いますが・・・)
 ところが、すでに室町幕府は、坂道を転がりだし、当然金も無く、庶民は、 臨時の重税と課役に苦しむのです。

 又、1461年には、記録的大飢饉(寛正の大飢饉)が発生するのです。大暴風雨、日照り、長雨、夏の異常低温、 いなごの大発生により8万人以上の餓死者を出したという天災も加わり、 当時の逸話に、「餓死した子供を抱いた母親にさえ、 役人は税を取り立てて決して許さなかった。」と「碧山日禄」にあるのです。
 さらに、義政は、京都中の屋敷や寺々から銘石や銘木などを無断で運び出して、 山荘に運び入れたのです。又、応仁の乱により焼け野原の都は、すでに深刻な木材不足だったといいます。
 この年の2月に大規模な花見をすると、時の 後花園天皇(ごはなぞのてんのう)から 諷諫(ふうかん)の詩が届くのです。

残民ざんみんあらそいて首陽しゅようわらび
処々しょしょを閉じ竹扉ちくひとざ
詩興しきょうぎんたけなわなり春二月
満城まんじょう紅緑こうりょくがためにゆる

この意味は、 「飢饉に苦しむ無残な人々が草を喰って飢えをしのぎ暖炉もなく、 家の戸を閉ざして喪に服している春2月に、 花見をし、詩を吟じて何が楽しいのか、都に満ちる花や木は、 いったい誰のためにあるのか、少しは考えてみよ・・・!(いいかげんにしろ!)」と、諭されても、 その行動が改まることは、ついぞ無かったのでした。 (満城 の紅緑、誰がために肥ゆる・・・この詩の迫力は、すごいよね!!)

 そして、最後に、義政が月見をする為だけに 造られた観音堂(銀閣)の建設に着手するのです。
見るべきものは、月ではなく、 地上の現実であり、民衆の貧困であったはずなのに・・・・。 義政の"政"は政治の政ではなかったのか・・・?

(余計なことですが、観音堂の一層は、心空殿(しんくうでん)二層を潮音閣(ちょうおんかく)と呼び、 潮の満ち干きは、月の満ち欠けと関係が深いところから、 月見と波の音を聞く潮音、そして観音とは、連鎖するらしい。 このあたりの切り口から銀閣寺の謎は、さらに紐解かれると思うのだが・・・、またいずれ・・・)
 義政の晩年は、酒びたりにより脳溢血(のういっけつ)となり、言語障害に加え半身不随となり、 やがて、銀閣の完成を待ちわびながら、ついに見ること無く、1490年、1月7日、 僅かな近習に見取られて、むなしくこの世を去るのです。
 偉大すぎる祖父、義満に対抗しようと、実力もないにもかかわらず、 それを理解することもなく民衆の怨嗟の声も届かず、この暗愚な将軍は、後世に、 四畳半、床の間、茶道、畳や僅かの文化的遺産を残しただけで、 有り余る程の民衆からの”恨み”を一身に浴びながら銀閣寺を残し、 およそ、100年にも及ぶ 戦国争乱の”パンドラの壺”を解き放ってしまったのでした。



 秋の紅葉の時期、写真やテレビに映し出される真っ赤な ”血のような もみじ”に彩られた 銀閣寺の美しさは、すばらしいですよね。くしくも、”血のような”と言いましたが、”血のような”ではなく、 まさに、”血のもみじ”そのもので、民衆の”恨みの紅葉、 そのもの”なのかも知れませんよね・・・。
 言い換えれば、「偉大な祖父 義満の残した美しい金閣寺への嫉妬から 銀閣寺を造営しようとしたが、 その批判を上回る義政への民衆の批判=”血の恨み”が、この銀閣寺には込められていた。」というお粗末でした。


 最後に、金と銀とは何か、ちょっと対比してみたい。
金は、太陽、繁栄の象徴・・・なるほど義満か・・・。
銀は、月、陰り、禅の悟り、破壊・破滅の象徴・・・なるほど義政か・・・。
 金と銀とは対比の両極ではあるが、月は太陽の輝きがあって初めて光を放つという側面もある。つまり太陽あっての月、金閣あっての銀閣、義満あっての義政でもあったのです。義政が池に月を浮かべて、歌を詠み酒を酌んでは風雅の道を求めたのも、偉大な太陽・義満という鏡に映った月・我を探し求めて苦悩していたのかもしれませんよね。

 晩年になり、義政は、次のような和歌を残しているのです。
「くやしくぞ、過ぎしうき世を今日ぞ思ふ、心くまなき月をながめて」

「くやしくぞ、過ぎし浮世」とは、・・・義政は、きっと、晩年になって 自分の人生の愚かさに気がつき、涙を流して、深く後悔したんだ。
「心くまなき月をながめて」とは、貧困にあえぐ民衆の心を、晴らすことを
「今日ぞ思ふ」 =今は、願っている。・・・・・と、思いたいですよね。
 きっと、最後は、 民衆の安寧を願っての銀閣寺造営だったんだと・・・。
”すべては、遅かりし!”で、あったのだが・・・・・。

 念のため、決して私は、義満・義政を批判するものではありません。 金閣寺と銀閣寺の美しさは、永遠に変わることはありません。
 ただし、昔、美しすぎる金閣寺に嫉妬して放火した修行僧がいたように、 ”美”とは、本来、”罪深きもの””破壊と破滅の象徴”なのかもしれません・・・。


 金閣寺と銀閣寺を対比していくと、その主人である義満と義政の生き方、 人生そのものの対比、金と銀、太陽と月、繁栄と破壊の対比と、ピタリと重なってしまうのです。 これって、もしかしたら義政は、意識していたの??・・・ 義政は、わざと破壊と破滅の道を歩んだのだろうか??・・・
どうして??・・・
美の為に??・・・  それとも・・・
(このHPを読むと、きっとあることに気がつきますよ・・・)

哲学の道でも、散歩しながら考えますか・・・・・。

 京の話は、ここでお開き、ということで・・・・?
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