●秀吉は、事前に本能寺の変を知っていた!●
奇跡の中国大返しの秘密
(1)序章
日本の歴史上、最大のクーデター、最大のミステリーは、なんといっても、
天正10年6月2日、
天下統一にあと一歩と迫った、織田信長
を家臣、明智光秀が襲撃した事件である。
いわゆる本能寺の変。
その名のとおり、数々の謎、数々の矛盾を秘めている。・・・え!?
それらの内、代表的な謎を、いくつか挙げてみると、次のようになる。
@明智光秀は、なぜ、謀反(本能寺の変)を起こしたのか。その動機は何か?
A単独犯か、複数犯か、又は黒幕(又は、追い込んだ人は?)は、いたのか?
この2つについては、当HPの
本能寺の変の黒幕は誰
で、公開中
B徳川家康の伊賀越えの謎(本能寺の変の黒幕は家康か?)
これについては、当HPの
生涯最大の艱難、伊賀越えの謎
で、公開中
それから・・・
C備中高松城水攻め中、羽柴秀吉は、
”いつ”本能寺の変を知ったのか?
秀吉は、6月2日に
毛利家の安国寺恵瓊と会って和議の相談をしている。
”仕上は信長様に”=信長に華を持たせる為に、信長の出陣を要請しておきながら、
信長の着陣前に勝手に
毛利との和議をすすめたら、信長の怒りをかうことは、間違いない。
おかしいですよね?しかも、本能寺の変の当日にですよ。
Dあまりに見事な、秀吉の中国大返しは、本当なのか?
事前準備は、なかったのか?
又は、どうして、こんな奇跡的なことができたのか?
CとDが発展して、「本能寺の変の黒幕は、秀吉説(背後で糸を引き、光秀をあやつったのは秀吉)」の根拠となっている。
ここで、忘れてはならないのは、その後、天下を取ったのは秀吉だということだ。
つまり、秀吉は、その後、なんでもできる立場となったということ。
つまり、「秀吉は、自分の都合のいいように、歴史を書き換えている。」可能性がある。
いわゆる太閤記等により、おもしろおかしくのサクセスストーリーを、”でっち上げた”可能性がある。
その1つが、本能寺の変であり、中国大返しである。これらの矛盾は、
”タイムスケジュール”の中にある。
それでは、本能寺の変を光秀と秀吉側から見た矛盾点を挙げ、
真実は、何であるのか?これを、今回のテーマとしたい。
(2)通説に従った、本能寺の変 前後のタイムスケジュール
天正10年5月 この月、秀吉、備中高松城を水攻め
同年 5月15日(1582年):家康、安土城に来訪、光秀その饗応役となるが、
突然変更、光秀に中国出陣を命令、光秀坂本城へ向かう。
同年 5月15日頃:秀吉より、信長に、華を持たせる為「仕上に是非、
中国出兵へ」の依頼有り
甘え上手の秀吉に、ほだされて、信長も「しかたない中国へ
出陣するか・・・」
同年 5月21日:家康、安土を出発、京から、堺へ見物に向かう
同年 5月26日:光秀、25日迄、坂本城、この日、丹波亀山城着
同年 5月27日:光秀、愛宕山の愛宕神社で戦勝祈願、おみくじを
何度も引く
同年 5月28日:光秀、愛宕山の愛宕神社で連歌師、里村紹巴(じょうは)
らと連歌の会を催す。
有名な「時は今 天が下しる五月かな」の句を詠む
同年 5月29日:信長、お小姓衆ニ三十人と共に上洛、本能寺に入る。
この月は、29日で終わり
同年 6月 1日:信長、本能寺で茶会、
太政大臣・近衛前久(さきひさ)、
勧修寺晴豊以下、40人の公卿、僧侶、地下人らを集め、
名物びらきの茶会
同年 6月 2日:本能寺の変、
未明に明智光秀の軍一万三千、
本能寺を急襲、信長自刃
秀吉、安国寺恵瓊と会い、毛利との和議斡旋の依頼
をする。
同年 6月 3日:光秀から小早川隆景宛の密書を持った間者が、秀吉軍に
捕らえられる。
”秀吉、本能寺の変を知る”
同年 6月 4日:秀吉、毛利氏と和議成立。高松城の包囲網解除
同年 6月 5日:光秀、安土城入城
秀吉軍、深夜、3万の大軍を東上開始(中国大返し)
同年 6月 6日:秀吉軍、備中高松より撤退完了
同年 6月 7日:光秀、近江を平定し安土城に入り7日迄滞在
夜、秀吉、姫路城に到着
秀吉軍、6日〜7日にかけて、沼城・姫路城間55キロ行軍
同年 6月 8日:光秀、坂本城に帰る。
秀吉軍、姫路城で1日休
同年 6月 9日:光秀上洛。正親町(おおぎまち)天皇、誠仁(さねひと)親王に、銀子を贈る。
秀吉軍、早朝に姫路城を出発
同年 6月10日:光秀、洞ケ峠で筒井順慶を待つが現れず。
光秀、秀吉軍の反転東上を知る
同年 6月11日:秀吉軍、摂津の尼崎に到着
(備中から尼崎迄、160キロを5日で移動。1日の平均移動距離約30キロ強。
しかも大雨の中を、増水した”川越え”を含め、重装備の鎧武者、
騎馬武者と徒歩足軽の混成軍の移動距離としては、奇跡的で謎。
ちなみに、旧日本陸軍の完全武装の歩兵部隊の1日の平均移動距離は、
約24キロ、時速約4キロ、一日約6時間の行軍が限界らしい・・・この計算だと7日かかる。・・・この謎の解明はいずれ又。)
同年 6月12日:秀吉軍富田に進出
同年 6月13日:山崎の合戦、光秀敗れる。
(3)通説のタイムスケジュールから見えてくる問題点
@情報秘匿の問題
5月28日に、明智光秀が、愛宕神社で「ときは今 天(あめ)が下しる五月かな」と
謀反の決意の句を詠んでから
6月2日迄に、信長に「光秀謀反」の情報が漏れる心配は、なかったのか?
こんな時、今も昔も、情報の秘匿が最大の課題であるはず。
そもそも、謀反決行前に、自分の本心をしかも、
重臣以外の里村紹巴などに漏らすこと自体、不思議だと思いませんか?・・・
その他、この日の逸話に、光秀は、”ちまき”を笹の葉の皮ごと口にしたとか、
本能寺の堀の深さを紹巴に訪ねて、「あらあら、おそれ多いこと!」と、皆を驚かせたとか・・・。
「光秀も、何やってるんだ!」と言いたいですよね。
本当は、この句の「さつきかな」のとおり、
謀反は、5月中の決行予定だったのではないか。
しかし、信長の予定変更で、1日・2日ずれたのではないか。光秀真っ青ですよね。2日迄、心配で眠れませんよね。
つまり、当初の謀反決行予定日は、5月29日だった。・・・これなら、「28日に遊んで、信長の間者等を油断させといて、
翌日に凶行!」という段取りで・・・少し、つじつまが合うのである。
Aそもそも里村紹巴とは、何者か?
その日の連歌の会のメンバーは、光秀にとって、そんなに信頼できる人物だったのか?
昔から不思議なのは、里村紹巴は、
信長とも親交があったのに、なぜ、
信長に「光秀謀反の疑念有り」と、知らせなかったのだろうか?
もし、光秀が失敗すれば、間違いなく、紹巴も、打ち首ですよね。
さらに、秀吉にだって、打ち首となっても、不思議ではないですよね。
なぜ、紹巴は、生き延びることができたのだろう。
もう一つ、本能寺の変の時、妙覚寺にいた
信長の嫡男、織田信忠は、
一千五百の兵を引き連れ、より堅固な二条御所に立て籠もった。
これを明智勢が取り囲んだ時、信忠の申し出により
誠仁(さねひと)親王等を御所に移らせたのであるが、
この時、荷輿を用意してタイミング良く駆けつけたのは、里村紹巴なのである。
不思議な活躍をしているのである・・・?
B6月3日:「光秀から小早川隆景
宛の密書を持った間者が、間違って秀吉軍の陣地に迷い込んで、
捕らえられ、秀吉は、
初めて、本能寺の変を知った。」という、話がありますが、
こんなドジな間者がいること自体、信じられますか??
それに、6月2日に起こった、本能寺の変の翌日の3日というのも、逆に早すぎませんか?
ちなみに、北陸で、上杉勢と対峙していた柴田勝家は6月4日に知っている。(これとても、”早い”と思うのに・・・・)
C秀吉の毛利側との和議工作は、いつからかという問題がある。
秀吉は、6月2日に毛利家の安国寺恵瓊と会って和議の相談
をしている。
信長に華を持たせる為に、信長の出陣要請をしておきながら、信長の着陣前に勝手に
毛利との和議をすすめたら、”信長の怒り”をかうことは、間違いない。おかしいですよね?
この矛盾を解決する為には、思い切って、「秀吉は、6月2日以前に”本能寺の変”をなんらかの方法
(間者、長浜城の留守居役の誰か、家族又は、商人等の情報)で、知り得たのではないか。」と考えたらどうか。
これなら、信長の許可を得ないで、信長の怒りを気にせずに、毛利との和議工作を進めたことのつじつまが合う。(つまり、思い切って全てのタイムスケジュールを前倒して考える必要がある。)
あなたも、お気づきのとおり、一番、
あやしいのは、里村紹巴ではないですかね。
後日、秀吉は、光秀の「ときは今 あめが下しる・・・」は、「天下取りの意思表示か?」と、
里村紹巴を責めたが、
紹巴は、「本当は、あめが下なる・・・でした。」と弁解した。
そして、愛宕神社から例の懐紙を取り寄せてみると、
何者かによって、一旦削った後に、「あめが下しる」と書かれていて、紹巴も「何者かに書き替えられています。」
と泣きながら、訴えた。これで、やっと、秀吉も納得したというのである。
これは、紹巴が「下しる」を一度削って再度、「下しる」と同じ文言を書いた・・・と言われている。
うがった見方をすれば、全ては、秀吉と紹巴のすべてを知った者どおしの「お芝居」。
「言い逃れ」と「アリバイ工作」のような気がしませんか。
その後、紹巴は、豊臣秀吉、細川藤孝、豊臣秀次などの、連歌の師匠となるのである。
さらに、後の関白秀次謀反事件の時も、連座の罪に問われるところを、なぜか秀吉に助けられているのである。不思議である。
つまり、里村紹巴は、
秀吉に、「光秀謀反の疑念有り」と知らせる密使を送った張本人ではないか。
言い換えれば、秀吉にとって、里村紹巴は、
天下取りの恩人ではないか。
これなら、6月2日に毛利家の安国寺恵瓊と会って和議工作を開始したとしても、
矛盾はない。秀吉は、本能寺の変を、
紹巴のおかげで、誰よりも早く知り、そのおかげで、
中国大返しの準備を6月2日以前に、スタートできたのかもしれない。
これなら、4日に毛利と和議を結び、
5日の東上開始迄、4.5日の準備期間が作れる。
もし、「秀吉は、6月2日以前に、本能寺の変を事前に知っていた。」
というこの仮説が正しいとするなら、
秀吉は、歴史にこの事実だけは、残すわけには、いきませんよね。
「秀吉は、あくまで、本能寺の変を事前には、知らなかった。」という、
歴史にしなければ、光秀以上の反逆者=裏切り者となってしまいますよね。
D中国大返しには、過去の失敗による反省が基本にある。
〇生涯最大の艱難、伊賀越えの謎〇でも、述べたとおり、
元亀元年(1570年)、信長と徳川の連合軍が越前一乗谷の朝倉義景を攻めた時、
信長の妹婿である、近江の浅井長政が裏切って、織田連合軍は浅井・朝倉軍に挟み撃ちにされ、
まさに"退路を断たれる"という事件があった。
このことから、長躯遠征軍の時は、撤退路の確保が重要だという、大きな教訓を、得るのである。
まず、これが基本にある。
Eその他、奇跡の中国大返しには、いろいろトリックがある。
備中から尼崎迄、160キロを5日で移動したということは、1日の平均移動距離約30キロ強。
判りやすく例えれば、約三万人が、4日連続で、フルマラソンを走破したという計算にもなる。本当??
しかも大雨の中を、増水した川越えを含め、重装備の鎧武者、
騎馬武者と徒歩足軽の混成軍の移動距離としては、まさに、超人的、奇跡的である。そんなバカな〜!
「馬を乗りつぶすのは、この時ぞ!」と、ひたすら、駆けにかけた。・・・とか、
”沿道の農民が、マラソンの補給所のように、にぎりめしや水、
夜はたいまつを用意して、待ち構えていた。”とか、
”鎧、槍、鉄砲、刀などは、脱ぎ捨て、打ち捨てて、
後から小荷駄隊が拾い集めながら、進んだ。”
・・・という話もあるが・・・。
これも、大雨、道路事情、川越えを考えると、よけいに小荷駄隊は遅滞してしまうのではないか。
それと、人や馬の水や食料、宿舎、睡眠、のこともあり、最後には、光秀軍との合戦を控えている。
これでは、いくら昔の人は、現代人と違って、超人とはいっても、いざ合戦の時、皆ボロボロだよ。
・・・考えれば、考えるほど謎は多く、後世のつくり話のように思えるのだが・・・。
たぶん、これらの逸話は、備中高松城から、姫路城までの話ですよね。
毛利軍の追撃の心配も有り、
皆、必死に、がむしゃらに逃げたが、
姫路城で、一日休憩してからは、態勢を立て直して、人数を新手の一万人(1/3)に絞り、
いつ、敵と遭遇しても良いように、その後完全武装で、粛々と移動したのではないか。
つまり、姫路城の1日休憩、中継地点の存在が、成功の決め手ですよね。
それに、山崎の合戦で、実際に戦ったのは、中川清秀、高山右近、池田恒興らの新手の
摂津勢、播磨勢(光秀の与力で、備中高松城攻めの軍とは別部隊)であった。
極端な話、秀吉軍は、秀吉や配下の部将級の家臣が山崎に間に合えばよく、
足軽、雑兵は、間に合っても、間に合わなくても、たとえ疲れきっていても、
問題なかったのではないか。
実際、秀吉の弟の羽柴秀長は、大返しの殿(しんがり)を務めたが、
尼崎では、秀吉より先に到着し、山崎の合戦では、自身の配下の代わりに、新手の但馬衆を率いて
明智軍の松田隊、並河隊を敗走させる活躍をしている。
こんな段取りが現実的であり、真実かもしれませんよね。
しかし、秀吉の底知れぬ”幸運”だけは、
不思議ですよね。只者ではないよね。
(4)まとめ
つまり、今風に言えば、信長株の下落を事前に知り、次の投資先の秀吉株の高騰を事前に予測できた、
村上ファンド=里村紹巴の秀吉株をめぐるインサイダー取引だった。
しかし、どうして、光秀株は買われなかったのか?
ここが、光秀の戦略眼を解くキーポイント、
光秀の将来性の欠如を、紹巴に見抜かれたのかもしれませんよね。
どんな時も、あわてずに、”ちまき”は、笹の葉をむいて食べようね。
そうじゃないよ、情報の秘匿には、気をつけようね。
紹巴にペラペラ喋っちゃダメだよ!
それと、「信長に光秀の動きを知らせたものが、誰もいなかった。
なぜ!?」
かつて、信長が今川義元を桶狭間に破った時、
「義元に信長軍の動きを知らせたものが誰も
いなかった。」ように、初めと終わりが同じ状況で、
人(義元と信長)が入れ替わっただけだった。
「●●の初まりが○○の終わりで、
●●の終わりが、○○の初まりだった。」
・・・皮肉な生涯だったということ??
ところで、秀吉の辞世の句は
「露と落ち 露と消えにし
我が身かな 難波の事も 夢のまた夢」ですよね。
これって、秀吉の自作だと思いますか。
”あまりにもみごと”というか、”できすぎ”ですよね。
しかも、晩年の秀吉は、だいぶ脳をやられてますよ。
たぶん、他人の作品・・・意外と、里村紹巴あたりの作品ではないですかね?
これって、イイセンかもね!!
次のストリーは、現在構成中、近日公開予定。
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