●坂本龍馬暗殺の犯人は誰●
坂本龍馬暗殺事件、前書き
坂本龍馬といえば幕末の混乱時に、
土佐の一郷士の子として生まれ、日本で
最初の貿易会社、亀山社中を創設したり、西郷隆盛と
桂小五郎(後の木戸孝允)の間を取り持ち
薩長同盟の立役者となったり、薩長と徳川の武力衝突(内乱)を避ける為、
徳川慶喜の体制奉還を画策し、
新政府に徳川慶喜を参加させ、穏やかな政権移譲を考えていた男。
龍馬の頭の中には、幕府も藩もない、武士も町人もない、自由と平等な理想的な民主国家
="
新日本"を夢見ていた男であった。
その生き様は、行動的で自由闊達、繊細且つ剛健、しかも、欲がない。女性ファンが多いのも頷ける。
又、結構謎の多い人物でもある。まずは、1番の謎、龍馬暗殺を推理してみたい。
○○○○○○○
日本を
今一度
せんたく
いたし
申し候う
幕末のミステリー坂本龍馬暗殺事件、前後の流れ
慶応3年(1867年)3月20日:伊藤甲子太郎(薩摩とも親密)、
新選組離脱、
高台寺党結成
6月9日:坂本龍馬は、土佐藩船夕顔に乗り長崎から京へ向かう。
龍馬は、「内乱は
外国侵略の餌食となる」と、
武力倒幕に反対で、慶喜を含めた新政府の樹立を
考え、船中八策の秘策を土佐の後藤象二郎に
与える。
前土佐藩主山内容堂は、
自分の政治的立場の強化を
狙って、前越前藩主、松平春嶽と組み、大政奉還を
慶喜に働きかけることとなる。
(この頃から慶喜、容堂、春嶽と薩摩の西郷・大久保らの政権
主導を巡る駆け引きは、年末から年始にかけ、それぞれの思惑が複雑に絡み会って、佳境へ、)
10月3日:土佐藩の大政奉還の建白書が、後藤象二郎より、老中板倉
勝静(かつきよ)に提出。
10月9日:龍馬着京、木屋町の酢屋に投宿、"龍馬三百名の
海援隊士を率いて入京"と幕吏の間に噂が流れる。
10月12日or13日:龍馬、木屋町の酢屋から河原町の醤油屋、近江屋に
宿替え
10月14日:朝廷より、あくまで武力倒幕が目的の薩摩及び長州に
倒幕の密勅が出る。
同日、徳川慶喜が朝廷に政権の返上を申し出る。
10月15日:大政奉還。
慶喜の狙いは、薩摩長州の出鼻をくじくこと。
「一旦、政権を返上しても、どうせ朝廷は手に余って
投げ出すにちがいない。」との「起死回生の一手」
に出る。一方、あせったのは、なんとしても戦争に
引きずり込みたい、薩摩の西郷隆盛と
大久保利通であった。
10月15日頃:後に、事件に巻き込まれた(山田)藤吉は、このころ龍馬に
下僕を許される。
10月18日:龍馬、伊藤甲子太郎を東山の月真院に訪ねる。
(なんの為にか?謎)
10月19日:龍馬、土佐に向かう望月清平(亀弥太の兄)を伏見まで見送る。
10月22日:後藤象二郎より福井行きを依頼される。
10月24日:龍馬、山内容堂の親書をたずさえて岡本健三郎と越前福井
へ行き、松平春嶽に、後藤よりの上京要請を伝える。
11月5日:龍馬帰京。「
新政府綱領八策」を草し、慶喜が盟主となる
ことを擬定する。
11月10日:龍馬、福岡藤次(ふくおかとうじ)とともに、幕府大目付、
永井
尚志(なおむね)に会いに行く。
その帰途、薩摩藩士の中村半次郎と偶然に
出会う。(ほんとうに偶然なのか?)
11月10日:伊藤甲子太郎、近江屋を訪れ龍馬と中岡に、
「
新撰組が
命を狙っている。」と忠告
11月11日:龍馬、幕府大目付、
永井尚志(なおむね)に朝と夕方の二度
訪問。
11月14日15日:永井尚志と面談。
11月15日:近江屋から3軒南の大和屋を宿とする福岡藤次のもとを二度
訪問。
11月15日:近江屋にて、
坂本龍馬と
中岡新太郎が何者かに襲撃
される。
この日、龍馬は数日前からかぜをひき、いつもは
裏庭の土蔵(いざという時は、裏の寺へ逃げられる
隠し階段付き)にいたが、用足しに不便だと母屋の
2階に移動していた。龍馬は頭を割られて、即死。
この時、下僕藤吉も、めったざしに合い死亡。(なぜ?)
享年33才、くしくも、この日は、龍馬の誕生日であった。
あ〜、瞑目。
後日、中岡は、犯人は「こなくそ!」
と叫んだと証言。
その後、死亡。
殺人現場には、"朱塗りの鞘"
と料亭「瓢箪」の
"下駄"が、片方残される。
新撰組の近藤勇は、暗殺当夜、会津
藩士山本覚馬
と酒宴をしており、一応、アリバイ有り。
もっとも、
暗殺を部下に命じただけなら、アリバイは、無意味。
11月16日:土佐陸援隊の村山謙吉(新選組間者で伊藤とも親密)捕縛、
その後、行方不明。
11月18日:高台寺党の伊藤甲子太郎一派、
油小路で、新選組に襲撃
され暗殺される。
11月20日:伊藤一派の生き残り篠原泰之進ら、薩摩藩邸
に庇護される。
その後、薩摩の中村半次郎(後の、桐野利秋)の
すすめで、土佐の毛利恭介らが、篠原泰之進らに
"朱塗りの鞘"と料亭「瓢箪」の"下駄"等を見せる。
篠原は、新選組隊士、伊予松山出身の原田左之助
の"鞘"と似ている。と証言する。
(ちなみに「こなくそ」は
松山弁)。又、料亭「瓢箪」に、
"下駄"を見せたところ、「確かに、
新撰組の方に、
お貸ししました。」と、女中の証言。
12月5日:薩摩軍が御所を包囲、王政復古の大号令
(この頃、西郷、大久保は、京都にあっては、御所会議
等で公家の岩倉具視と組んで、山内容堂や松平春嶽
と、激しい政争を続けながら(政治の焦点は、新政府
に、慶喜を参加させるかどうか)一方で、江戸に人を
送り、押し込み強盗や、江戸城二の丸に放火する
など手段を選ばぬ、「挑発作戦」に打ってでる。
この頃の西郷、大久保は、これが後の世に言う「明治
の元勲」かと疑うような、異常とも思える、なんでも有り
の行動にでる。)
12月25日:一部の幕臣が暴発、江戸の薩摩屋敷が焼き討ちされる。
慶応4年(1868年)1月3日:慶喜、幕臣の怒りを抑えきれず。幕兵、京へ
進軍。鳥羽伏見の戦い始まる。
1月5日:薩摩軍に偽の、錦の御旗が上がる。幕府軍は、
朝敵となり、
総崩れとなって、大阪へ敗走する。まさに薩長は、
「勝てば官軍」となる。
松平春嶽の言葉を借りれば、
「
憤懣やるかた無し!!」
、その後は省略。
慶応4年1月23日:太政官の刑法事務局は、二条城門前に暗殺禁止令
の高札を建てる。
明治2年11月:函館戦争で降伏した旧見廻組与力頭、今井信郎が、
函館戦争の戦犯容疑で取り調べ中、「龍馬暗殺は、
見廻組で自分は見張り役だった」と自供する。
その後、禁固刑となるが、後になぜか、恩赦となる。
龍馬暗殺の慶応3年11月15日前の龍馬の行動は、知られているだけでもこのとおりであるが、当然、知られざる行動は
この数倍の事実があると思われる。おそらく10月中と11月15日迄、1日たりとも、むだに過ごした日はないのではないか。
龍馬の行動力は"すさまじい"の一言である。
以上、この事件は、当初から
新撰組説が有力だったが、近年、この今井信郎の証言が明るみに出てから龍馬の暗殺は
佐々木只三郎率いる見廻組説が最有力で、なかば定説化しつつある。
ほんとうかな〜? あなたは、
そろそろ
私の言いたい事、分かるよね・
ね!!!
次回へつづく