◎坂本龍馬の謎と秘密●
なぜ坂本龍馬のような男が土佐に生まれたのか?
坂本龍馬は、その行動力もさることながら、
アメリカ・ヨーロッパの世界をも視野にいれた”世界の中の日本”を、
初めて意識した男であった。
「日本を、今一度、洗濯いたし もうし候う。」という
龍馬の代表的な言葉が郷里に送られた手紙の中にある。
幕末とはいえ当時の幕藩体制の中にあって、国といえば、藩をさす時代に、
”日本”を意識し、
”日本を洗濯しよう”・・・
という発想の武士がいったい他にいただろうか?
又、日本で最初に新妻、
お龍(おりょう)と新婚旅行に行ったという。
まるで、現代人が幕末の時代へ”タイムスリップ”したのではないか、
と思えるほどである。
有名なエピソードは、文久2年(1862年)10月、当時まだ、
開国論より攘夷思想に傾いていた坂本龍馬は、
京橋桶町の千葉道場の師範代、千葉重太郎(神田お玉が池の千葉道場とは別、千葉周作の弟の子)
と、アメリカ帰りで、開国論者(龍馬から見れば、外国かぶれ)の
勝海舟(本名:麟太郎)との直談判に、
「もし、話がつかねば勝を暗殺しよう」と、自宅を訪ねるのである。
その時、勝は龍馬に、”アメリカと日本の軍事力、経済力の
国力の格差”
を力説し、攘夷よりまず
開国し、西洋文明を受け入れて、日本の国力充実
(海軍の充実=富国強兵)
が最優先であると説いたのである。
これに対して、龍馬は、アメリカ合衆国へは行ったことがないにもかかわらず”勝の話”を即座に理解するのである。
換言すれば、龍馬だからこそ、諸外国との軍事力の格差という現実問題を理解し得た
という、まさに英明思想家であった。
この勝海舟との出会いによって、
海軍の重要性を理解し、
勝海舟の弟子となるのであった。
・・・というようなテレビドラマの一場面が脳裏に浮かぶのである。
こんな龍馬を育てた土壌が、この土佐という土地がらにあったのだろうか?
多くの人が、後に述べる上士と下士(郷士)という厳しい身分制度と、
黒潮流れる荒々しい海辺の町=土佐をその理由に挙げるのだが、
当時日本中いたるところに、
同じような土地はあったはずだ、もっと決定的な理由があるはずなのだが・・・。
それは、龍馬だけに与えられた何か特別な環境があったのではないだろうか・・・?
そうでなくては、どうにもこの坂本龍馬の発想や行動は理解できないのである。
1.土佐独特の風土の問題=一番の理由
土佐二十四万石は、大河ドラマでおなじみの
山内一豊が初代藩主である。
その前は、長宗我部氏が、四国で隆盛を極めていた。
一代前の長宗我部元親
(ちょうそかべ もとちか)は、四国の太守と言われ、軍略と民政にも優れ、
四国全土をほぼ統一するほどの勢いであった。
ところが、慶長15年(1600年)9月15日、元親の子、
長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)は天下分け目の関ケ原の合戦で、
西軍に加わり、敗れて土佐へ帰り、その後、家康の謀略
により領地没収改易となったのでした。
その為、一両具足といわれた長宗我部氏の旧家臣(土佐独特の勇猛な半農半武士)たちは、突然、
精神的主柱である主君を失い、茫然と土佐に取り残されたのである。
その後、長宗我部氏と入れ替えに、関ヶ原の功により遠州掛川六万石から土佐二十四万石に転封となり、
一国一城の大大名となった山内氏に支配隷属されるのである。
旧家臣のうち、ある者は山内氏と戦い討伐され、ある者は山内氏の家臣となり又ある者は、四国の山野に散り散りとなるのであるが、
この時、旧長宗我部氏の家臣から
山内氏の家臣へと従属したものは、下士(郷士)と呼ばれ山内氏の家臣たちとは一段格下の身分となるのである。
つまり、徳川家に恩ある山内家の譜代家臣と、徳川家に遺恨こそあれ何の恋慕の情も感じない旧長宗我部氏の家臣とが、
支配者と非支配者(=上士と下士)という関係となるのであった。
さらに旧主長宗我部盛親は、大阪夏の陣・冬の陣にも大阪城に馳せ参じ、豊臣方として奮戦するのである。
旧長宗我部氏の家臣たちには、筋を通して武運つたなく
滅亡した旧主に対するそれなりの自負があった。
一方、「そもそも山内など、旧主豊臣氏の恩義も忘れ、
節操なく徳川にゴマをすって成り上がった、遠州掛川六万石の小領主ずれが・・・威張りくさって何をほざくか・・・」
という想いであったのだ。
龍馬11歳の逸話に、楠山塾(なんざんじゅく)へ通っていた時に、
ある上士の倅と喧嘩になり龍馬に斬りかかるという事件があった。
塾長の楠山庄助は、「上士の倅に非があり」と、
上士の倅を退塾処分とするのであった。これに対し龍馬の父は、
「上士の倅と喧嘩するなどもってのほか」と、
龍馬を塾から辞めさせてしまうのである。
この時、龍馬は、この身分制度の不条理に、大いに心を痛めたのであった。
これ以後、龍馬は正式な学問はあきらめて、
身分制度に関係ない”剣の道”
へと進むのである。結果的には、これが幸いするのであるが・・・。
このような厳しい身分制度は、江戸時代260年間もの永きに渡り続くのである。
恩義はすぐに忘れさられるが、遺恨は親から子へ子から孫へと受け継がれ、
およそ数百年ではとても消えないのである。
龍馬が土佐脱藩という自由な道を歩み、日本という大きな視野を持ちえたのも、このような歴史的背景があったからかもしれない。
一方、薩摩や長州の幕末の志士たちの中で、
藩という枠組みを捨てられたものは、一人もいなかったのでした。
あの高杉晋作でさえ、自分が死んだら墓の裏には「毛利家恩古臣高杉某嫡子也」と書くように遺言したのでした。
又、偶然か必然か、「尊王攘夷だ!」 「倒幕だ!」と叫んで、幕末から明治への新時代を築いた、薩摩、長州、土佐は、
いずれも、天下分け目の関ケ原での敗軍の憂き目
を味わった者たちの末裔たちだったのでした。
2.河田小龍との出会い(ジョン万次郎の影響)
ジョン万次郎
(中浜万次郎=中浜村の万次郎)は、土佐の漁師で、14歳の時、船で出漁中に嵐に会い難破遭難し、
アメリカの捕鯨船に助けられて、アメリカに渡り、かの地でアメリカ人に育てられ10年間勉学し、
嘉永5年(1852年)10月に日本へ帰ってきた者であった。
龍馬が万次郎に直接会ったという記録はないが、安政元年(1854年)に、
万次郎から直接聞き取り調査した河田小龍という人物と会っている。
ちょうど河田は、「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」という万次郎の漂流記を執筆中で、ジョン万次郎
から聞きかじった、
アメリカの高度な科学技術を具体的に
説くのである。
攘夷など絵に描いた餅であり、日本が外国と対等に渡り合う為には、まず開国し、
海軍の充実、その為にはまず一番に、
「蒸気船を手に入れて商業貿易をしながら海運技術の習得をする必要がある。」
と当面の具体案を龍馬に説くのである。
龍馬にとっては、まさに目からうろこの具体的な妙案だったのである。
そもそも河田は船役人の息子で、狩野派の画家となり、龍の絵を描かせたら当代随一といわれたが、
ジョン万次郎と会ったり、薩摩の反射炉(国産の溶鉱炉)見学の随員となったり、歴史の表舞台には、登場しなかったが、
なかなかの人物だったらしい。
これが、龍馬19歳の時であった。これ以後、龍馬は、攘夷論より一貫して、開国論者であったのだ。
これは、勝と出会う実に、8年前のことでありアメリカ事情の予習は十分であり、
冒頭の外国かぶれの勝を斬りに行くというのは、事実ではない。
真実は、自分と同じ開国論者の勝の意見を聞きに行ったのであり、一緒についていった千葉重太郎が攘夷論者だったのである。
3.龍馬の姉・乙女の秘密
坂本龍馬には、2歳年上の姉、乙女(おとめ)がいる。
乙女は、身長五尺八寸(約175cm)、体重三十貫(約113kg)で、着物は一反では間に合わないほどの、
当時としては(現代人としても)、大変な大女である。下駄履きで、米俵を両手に下げて米蔵迄を往復した・・・とか、
剣術、馬術、水泳、鉄砲打ちと大変な
豪傑だったらしく、通称 ”坂本のお仁王さん”と呼ばれたのであった。
一方、龍馬は、12歳の時に母をなくしてから、この乙女が母親代わりとなるのである。
龍馬の子供の頃は、洟垂れの、寝小便たれで、これを鍛えようと、乙女は、
竹ざおに荒縄を結びその先に龍馬を縛り、川へ
投げ入れて、沈むと竹ざおを持ち上げたり、引っ張ったり、沈めたりと”水練の特訓”をしたとか、・・・
大変なスパルタ教育ですよね。
この乙女のスパルタ教育が、
龍馬の脳の神経回路を突然網の目のように繋ぎ変えた・・・原点ではないのか。
私も子供にやって見ようと思うのだが、現代でやったら、間違いなく、児童虐待で、逮捕されますよね。
その後、龍馬が江戸へ留学したり、土佐藩を脱藩した後も、乙女姉さんに宛てた手紙は、数多く残っている。
その手紙には、幼子が母親に甘えるような、ほほえましい手紙ばかりであり龍馬と乙女姉さんの関係を垣間見れるのである。
この乙女は龍馬の人格形成に多大な影響を与えたことは、確実ですよね。
龍馬と お龍(おりょう)と 乙女(おとめ)と・・・
4.坂本家の秘密
龍馬の写真をよく見ていただきたい。何かに気づかないだろうか?・・・そう、家紋である。坂本家の家紋は、
「組み合い角に桔梗」である。
あら!? ・・・桔梗紋といえば・・・明智光秀・・・?
さらに・・・坂本といえば・・・坂本城 ( 明智光秀の居城の一つ )・・・?
話は、さかのぼり、天正10年(1582年)6月2日:京都本能寺に
織田信長を家臣
明智光秀が急襲したのでした。
いわゆる本能寺の変。その後、6月13日:山崎の合戦に、明智光秀が
羽柴秀吉に敗れるのである。
この時、近江坂本城を守備し、落城とともに明智一族とともに自害したのが、
光秀の娘婿の明智秀満(左馬助光春)であった。
この秀満の妾腹の子 太郎五郎
なる幼児が土佐の長宗我部氏を頼って落ち延び、
才谷村に移り住んで才谷を名乗った。
或いは、近江坂本城からとって坂本と名乗った
という伝承があるのです。
ということは、坂本龍馬は、
土岐源氏の明智家の末裔・・・・ということなのです。
当時、明智光秀と
長宗我部元親とは、光秀の重臣
斉藤利三を通じて、姻戚関係にあるなど関係良好であった。
一方、織田信長は本能寺の変の直前に長宗我部氏討伐を決定しており、長宗我部氏は存亡の危機だったのだ。
ところが、突然の”本能寺の変”により長宗我部氏は生き延びたことから、
長宗我部氏は明智氏に対して、好意的であり、このような話があったとしても不思議ではないのである。
ところが、明智氏の 太郎五郎なる落人説の真意もさることながら、厳密には、坂本龍馬の三代前は、
才谷屋という造り酒屋や質屋を営む町人で、
「坂本」という郷士株を買って、武士になったというのが真相のようで、明智家の末裔かどうかは、ちょっとあやしいようである。
但し、歴史的真偽はともかく、桔梗紋の着物を着た坂本龍馬の写真から、龍馬は、姉の乙女から薫陶を受け、
この「明智家の末裔」ということを心の支えの一つとしていたのではないか。
龍馬は、自分のことを謙遜して「土佐の芋ほりともなんともいわれぬ居候に生まれて・・・」と称していたが、
これはあくまで、表向きのことである。
「龍馬! なにしよんね。ちくっと、しっかりしいや!
坂本家は、土岐源氏である明智家の末裔ぞ!」
という乙女が龍馬を叱咤する声が聞こえませんか。そうでなければ、
桔梗紋を付けた龍馬の写真は、残っていませんよね。
開明思想家の坂本龍馬だけに、
”ふところに忍ばせたピストール”
と
”和装姿にブーツ”
までは、
「なるほど」
と言わしめるものがあるのだが、
龍馬をしても
”桔梗紋の着物”
だけは、捨てきれないものだったのだろうか・・・。
・・・ニカッ・・・と!!
最後に問題です。このページの中に”龍”の字のつく人は、
何人登場したでしょうか??
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