◎「川中島の戦い」の真実!?◎
朝霧と共に消えた越後軍を探せ!
前書き
甲斐の武田信玄と越後の
上杉謙信と言えば、戦国の名勝負として誰もが知っている「1561年 永禄四年の川中島の戦い」である。(第四回目/合計五回)
上杉謙信は、当時 上杉政虎を名のっていたが、ここでは分かりやすく信玄と謙信で話を進めたい。(ちなみに謙信を号するのは 1571年 元亀二年からである。)
この「川中島の戦い」は、数々の逸話を残している。
@甲斐の虎と言われた武田信玄の軍師 山本勘助の編み出した「きつつきの戦法」
A越後の龍と言われた上杉謙信の編み出した「車懸りの戦法」
B乱戦の中、単騎上杉謙信が武田信玄の本陣深く斬り込み、三度太刀討ちし、
これを信玄が軍配団扇で受けたという謙信と信玄の「大将同士の一騎打ち」。
戦国時代の一大クライマックス、信濃の大平原で両軍二万以上の大軍が真正面から戦った、まさに竜虎相まみえた横綱相撲であった。
啄木鳥が木の裏側をコツコツと叩き、虫を反対へ追い出して食べることから名付けられたと言われる「きつつきの戦法」や「大将同士の一騎打ち」は、本当だったのか、謙信の新戦法「車懸りの戦法」とはいったいどんなものだったのか。興味は尽きないが、実は謎だらけの戦いだったのでした。
1561年(永禄四年)越後の虎、上杉謙信は、精鋭一万三千の軍勢を率いて北信濃の川中島へ兵を進めたのでした。
この年の春、謙信は、関東に出兵し関東の諸豪族十万の大軍を率いて北条氏の小田原城を攻め、
鶴岡八幡宮で関東管領に就任し上杉の名跡を継いだばかりであり、気力体力ともに最も充実した時だったのでした。
一方、越後の隣国信濃は、武田信玄に侵略され、
信濃守護で深志城の小笠原長時や葛尾城の豪族 村上義清らは信玄に追われ、狭義心に厚い上杉謙信を頼って越後に亡命していたのでした。
これにより謙信の領国越後は、わずかな北信濃をはさんで直接武田の脅威にさらされ、小笠原長時等の出陣要請を受けた義戦と言われているが、
本質的には”領国越後の防衛戦”であり、自身のプライドと越後の諸豪族と謙信に服属する北信濃の諸豪族との結束強化の為にも、何としても負けられない
”会敵必戦の覚悟の出陣”だったのでした。
信玄から見るとここ川中島は、千曲川と犀川に囲まれた肥沃な二万町歩余りの穀倉地帯であり、川中島から越後春日山城までは、およそ70キロ、信越国境まではわずかに30キロ、甲斐躑躅ケ崎館迄はおよそ150キロであり、穀倉地帯に乏しい信玄にとって天下統一の為には、何としても確保しておきたい信濃最大の米蔵だったのでした。
そして、海津城は、軍師山本勘助の縄張した城であり、寵臣 高坂昌信の守る武田軍の北信濃の防衛最前線だったのでした。
近年の研究によれば、武田信玄が北進したのは、日本海側に面した柏崎や直江津などの港がほしかったから、つまり越後、能登、加賀、近江、京都を結ぶ北回り航路(北前船)の利権と京都への道=”上洛への道”が欲しかったからだという説があります。なるほど・・・。
川中島の戦いの主な年表
永禄4年8月15日:上杉謙信 1万3千の軍勢を率いて善光寺に到着
(1561年)
同年8月16日:上杉軍、5千を残し8千を率いて千曲川を越えて海津
城の西南、妻女山へ布陣
信玄、”のろし”によりその日の内に、謙信着陣を知る
同年8月18日:武田信玄、甲斐府中を出陣、1万7千の軍勢となる
同年8月24日:武田信玄、上杉軍の退路を断つべく茶臼山に布陣
同年8月29日:武田軍、上杉軍を誘うべく面前をとおり海津城に入城
武田軍、海津城の兵3千と合わせ、2万の大軍となる
10日間、両軍のにらみ合いが続く
山本勘助、「きつつきの戦法」を信玄に献策する
同年9月 9日:深夜、武田軍別働隊 1万2千、妻女山急襲の為進軍
謙信、炊事の煙から、武田軍の”動き”を察知する
同年9月10日:朝霧の中、八幡原で待ち構える武田軍の前に、突然
上杉軍が、「車懸りの戦法」による猛攻撃を開始する。
危うし信玄!!
”しのぎを削る”上杉・武田の陣取り対決
川中島の合戦を理解する為には、柔道や剣道の崩し
、溜め、いなし、
すかし、さらには
、応じ技
、返し技
などの戦術の理解が必要である。
第一幕・・・上杉軍、妻女山へ進軍
謙信は、途中善光寺で小荷駄隊 五千もの大軍を残し、精鋭八千を率いてさらに北信濃を南下、8月16日犀川を越え海津城を尻目に、さらに千曲川を越え海津城の目と鼻の先の妻女山に登り陣を構えたのでした。
これは、敵国の奥深く進攻した一見非常識で大胆な陣取りだったのでした。
これ以後、信玄と謙信の「皮を切らせて肉を切る、肉を切らせて骨を断つ」のしのぎを削る虚々実々の駆け引きと、謀略戦の始まりだったのでした。
もちろん、善光寺に残した 五千の小荷駄隊には意味がある。正確には、小荷駄隊ではなく、上杉軍の撤退路確保の為、或いは上杉軍が危急の時の急援軍であり、
武田軍をけん制する為の遊撃隊としての存在であった。それともう一つ最も重要な意味は、あえて武田軍よりも自軍を寡兵にして信玄を戦に誘い込む為だったのでした。
そして最後まで海津城など相手にせず、「いざ、信玄ござんなれ!」と悠々と信玄の到着を待つのでした。
第二幕・・・武田軍、茶臼山に陣取る
武田軍は、この日の為に用意した”のろし”の伝達により、8月16日のその日に「謙信来る!」
の報に接すると急遽、8月18日に甲斐府中を出陣したのだった。途中ぞくぞくと兵を集めながら北進し、一万七千の大軍勢となると、8月24日まずは、茶臼山に陣取り
情報分析となるのである。ここ茶臼山は、妻女山の上杉軍の退路を絶ち、海津城と連携すれば、上杉軍を挟み撃ちにもできる絶好の陣取りだった。
この武田軍の迅速な対応に、さぞ上杉軍も慌てるだろうと思いきや、さにあらず、謙信は、なおも悠々と妻女山に陣取るのでした。
そこで、信玄は謙信に何か秘策があるものと、四方に諜者を放ちさぐらせると・・・、「善光寺に五千の伏兵あり。」との知らせを受けるのでした。
さっと青ざめる信玄。「そうか、読めたぞ、謙信の計略が・・・。ここに居ては危うい、陣替えじゃ!」
ここでいっきに形勢逆転となっていたのである。なぜなら、上杉軍を挟み撃ちと思ったのもつかのま、実は武田軍も、退路を絶たれ妻女山と善光寺の上杉軍に挟み撃ちにされているという”お互いに挟み撃ち”という陣取りだった。
第三幕・・・武田軍、海津城に合流
8月29日、一計を案じた信玄は、上杉軍の面前を通って、「上杉軍よ、かかって来られよ!」と、挑発しながらゆるゆると海津城へ入城するのであった。もし、上杉軍が妻女山を降り武田軍の側面を攻撃すれば、直ちに海津城の高坂昌信と計って上杉軍を挟撃しようとしたのでしたが、謙信は、なおも妻女山にあって沈黙を続けるのだった。
「いったい謙信は、何を考えているのか? ・・・何かを待っているのであろうか?
このまま、時が過ぎれば、兵糧も底を尽きるであろうに・・・」
妻女山より帰った諜者によれば、
「謙信は、琵琶を弾き、鼓を打って、悠々と謡曲 松島を舞っております。」
とのことであった。
実はこの時謙信は、盛んに次のような謀略を巡らしていたのであった。
@信玄が留守中に、甲斐府中を隣国 相模の北条軍が侵略しようと、国境に兵を繰り出したという噂を流す。
A信玄に服属している北信濃の豪族○○等が この隙に謀反を企てているという噂を流す。
B関東管領となった謙信の命を受けた北関東の諸豪族が、碓氷峠を超えて、
信玄の背後に迫っているという噂を流す。
C善光寺の伏兵 五千が、海津城を挟撃する為、城下に迫っているという噂を流す。
これらの、謙信の謀略は、信玄旗下の城兵達を動揺させるに十分だったのでした。なぜなら、信玄の領国甲斐は、四方を敵に囲まれ、さらに長躯遠征軍は、謙信(70キロ)ではなく信玄(150キロ)だったのでした。つまり長躯遠征の孤立軍は、信玄側であり、さらにくしくも季節は、米の刈入れの秋、農兵を抱えた両軍の長陣はお互いにできないのだった。信玄は、しだいに”あせり”へと変りはじめるのである。
「我が武田軍は、総勢二万の大軍、謙信の籠もる妻女山は、高だか八千の小勢ではないか、なにを恐れることやあろうか・・・!」
謙信は、これを、この時を待っていたのであった。
第四幕・・・きつつきの戦法
「勘助を呼べ〜い!」
ここで山本勘助が献策したのが、「きつつきの戦法」だったと言われている。
「きつつきの戦法」とは、
啄木鳥が木の裏側をコツコツと叩き、虫を反対側へ追い出して食べることから名付けられたといわれている。つまり、武田軍二万の内、高坂昌信等が別働隊 一万二千を
率いて、謙信の籠もる妻女山の裏側から奇襲して上杉軍を八幡原へ追い出して、
これを、信玄率いる本隊 八千で待ち構えて、挟み撃ちにしようというものだったと
言われている。
但し、この作戦は、どうも怪しいらしい。なぜなら、
@一万二千もの別働隊が夜陰にまぎれ、上杉軍に悟られることなく、松明も点けず漆黒の闇の中を、熊笹の生い茂る道なき道を進軍するのは不可能らしい。わたしもそう思う。
A海津城には、大きな欠点があった、それは、妻女山から近すぎて丸見えだった。夜陰にまぎれて別働隊が動いたとしても、隠密行動などありえない。動けばすぐに謙信にばれる。
B小説やテレビドラマでは、 ”上杉軍或いは武田軍は、前日から川中島に霧が発生することを、土地の者から聞いて知っていて、武田軍は霧に紛れて妻女山を攻め、上杉軍は霧に紛れて山を降りた。” という設定が多い。現代の科学的な天気予報でも外れるのに、霧がでることが分かるだろうか、又、そんな中、万余の命を賭けた一か八かの作戦を実行するだろうか・・・?
それでは、真実は・・・・・??
私は、逆説的に、なぜ総勢二万もの大軍が正面から戦ってしまいお互い多大な犠牲を出してしまったのか・・・・おそらく真実は、お互い大合戦など望んでいなかったのではないか・・・そこから考えると、以外な答えがでるのである。それから、妻女山って何? これだけの大合戦なら、なぜ謙信山或いは、上杉山ではないのか? この合戦の痕跡は、現代に、ほとんど残っていない。ここに何か重大な秘密があるのではないか。
おそらく信玄と勘助? の策は、こうである。
もはや、米の刈入れの秋である。
これ以上、上杉軍と戦っても双方に甚大な損害(死者)が出るだけで何の利益も無い。信玄は、謙信に密使を送るのである。内容は、
「お互いに、傷みわけということで領国に撤退しよう。」と持ちかけるのである。
謙信も内情は、同じであり敵陣深く進軍し約1ケ月も妻女山(敵国の占領地)を逆に占領すれば、十分に面目は立つのである。
つまり、真実は、信玄と謙信の密約による撤退であったのである。
密約の証は、先に武田軍の撤退であった。
9月9日:深夜、信玄の影武者率いる武田軍主力(実際は別働隊) 一万二千の偽装部隊は、「風林火山」の軍旗を先頭に、粛々と甲斐本国へむけて撤退するのである。
9月10日:早朝、謙信はこれを確認すると、全軍を率い越後目指して粛々と千曲川の雨宮の渡しを渡り、撤退を開始するのである。撤退方法は、全軍を2軍に分け、一の軍が半里撤退すればその場で反転し防御の陣を組むと、次の二の軍が半里撤退しその場で反転し又防御の陣を組む。これを繰り返すのが越後流軍学にいう「繰り引きの陣」であった。
ところが、予想外は、犀川と千曲川に囲まれた川中島の地形により昨夜来の冷たい雨によるこの地方独特の一寸先も見えない、深い深い朝霧であった。
一方信玄は、越後軍に隙あらば、敵の側面又は、背後からの「追撃作戦」であった。それも形だけの追撃戦、部下に対する「戦うぞ! 俺は強いんだぞ! 戦やってんだぞ!」の単なるポーズだった。その為に、武田軍は、機動力の騎馬隊が前面に突き出た「魚鱗の陣」であった。但し”隙あらば”のポーズであり次善の策だったのである。この騎馬隊が前面に突き出た「魚鱗の陣」の欠点は、攻撃向けの陣形で、防御には、向いていないということだった。
ところが、ここでも又予想外は、深い深い朝霧であった。
そんな中、暗闇の中、手探りの状態で、万余の軍勢が偶然出くわしてしまった。という予期せぬただの突発事故だったということだったのではないか・・・。まあ、ここまで言ってしまうと、ちょっと言いすぎですかね・・・。
ここで有名なのが、江戸時代後期の漢学者 頼山陽の漢詩(七言絶句)である。
題 不 識 庵 撃 機 山 図
鞭 声 粛 粛 夜 過 河
暁 見 千 兵 擁 大 牙
遺 恨 十 年 磨 一 剣
流 星 光 底 逸 長 蛇
不識庵の 機山を 撃つ図に題す
鞭声 粛々 夜 河を過る
暁 に見る 千兵の大牙を擁するを
遺 恨 十 年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
朝霧の大決戦へ行く前に、一言
上杉謙信の軍旗は、”毘”
もちろん、”毘”は、謙信の崇拝した毘沙門天の”毘”
”毘”は、”美”に通じ、”義”に通じている。
”義”は、正義の”義” 又は、仁義の”義”
上杉謙信は、生涯 私利私欲を捨て、美しき室町幕府の秩序回復の為、”義の戦””美の戦”をし続けたのだった。
・・・なぜ??
いよいよ お待ちかね・・・朝霧の大決戦へ続く(待ってないよ!)
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