★歴史の革命児、織田信長は突然変異?★
前書き
戦国時代に桶狭間の奇襲戦で、今川
義元を破り、歴史に彗星のごとく現れたのは、織田信長であった。
その後、下克上の見本のような骨肉戦を経て尾張を統一。
フルシーズン出撃可能な常備軍の編成
により強国の隣国、美濃を制し、ついに、上洛、比叡山を焼き討ちし、長篠の戦いで、武田勝頼率いる当時最強の騎馬軍団を、
鉄砲の三段撃ちという新戦法で破り、約百年続いた混沌の戦国時代をほぼ統一したのであった。
軍事面だけでなく、楽市楽座による自由闊達な経済政策、城下町や経済都市の建設など、又、ヨーロッパの宣教師から、
西洋の技術(航海術、天文、科学)や思想、宗教、文化を知り、、日本人で初めて地球の裏側迄の"世界"を意識した人。
封建的な中世から近世への扉を開いた人であった。
もし、本能寺の変がなかったら、その後の日本は、大きく変わっていただろう。
もしかたら、17世紀から貿易立国の日本が誕生し、
今の日本とは、かけ離れた西洋式の国家が、遠くアジアの東の果てに出来上がって
いたかもしれない。
そんな織田信長を評して、天才とか、歴史の革命児とか言うことに、依存はないであろう。
しかし、どんな偉人も、突然変異ということは、ありえないのではないか。どんな天才も、何らかの理由や必然性があって生まれるのではないだろうか。
では、その理由、必然性とは、いったい何で又、いったい誰の影響だったのだろうか。
・・・そんな視点から織田信長の実像に迫ってみたい。
前おきが、長くなったので、そろそろ本題に入りたい。
私が、信長に影響を与えたと思う、次の1事象と4人を順次検証してみたい。
1.その時代をいち早く理解した信長
信長はいかにして作られたか、その一番の答えは、信長を取り巻く時代背景であり、
少年時代に、その時代の流れをいち早く理解したからではないだろうか。
当時、長く続いた応仁の乱により、
京の都は荒れ果てていた。家は焼かれ、土地は荒れ果て、行き場のない貧しき人々であふれていた。
さらには、各地で地震や洪水などの自然災害、それに伴う凶作、飢餓、疫病、
夜になれば、盗賊の群れが、村を襲う。
今で言えば、第二次世界大戦後の経済の荒廃、失業、社会不安、末端の人々にとっては、
夢も希望もない地獄の時代であった。
社会が荒廃すれば、室町幕府の権威など絵に書いた何とやら、
幕府を頂点に、守護、守護代、地頭などの古い権威や秩序は地に落ちていた。
そこで、新しく力のある者が、主人を倒し、親兄弟といえども油断ならず、
骨肉相食む時代となっていた。
信長は、そんな厳しい時代の中に、いやおうなく"存在する"ということを子供心にも感じたことで、
自分はどう生きるべきか、
ということをいち早く「真剣に考え、
真剣に悩む」ことが、できたのであろう。
信長は、子供の頃、不良少年だった。髪は茶せん髷に結い、浅黄色の着流しに袴をつけず、荒縄を
腰に巻き、火打石や瓢箪を腰に下げ、人に寄りかかって瓜を食べる。
およそ尾張三奉行の一人の織田家の若殿様としては、"うつけ"と呼ばれ、
バカ殿様と、人の目には映ったのだろう。
まあ、今で言えば、果敢な青少年時代に、自分に押し付けられた規定路線の将来や、
不条理な現実社会に背を向けて、バイクを乗り回した暴走族。
世間から、「あの家の、お父さんは、真面目な公務員なのに
、息子は、暴走族だってよ・・・。」と後ろ指をさされているのに、良く似ている。
しかし、暴走族は、いつまでも
暴走族ではない。青春時代の一陣の風のごとく、年相応となれば、
・・・いまではりっぱな社会人なのだ。(世間一般に、よくある話)
2.父・織田信秀の教育方針
信長の父・織田信秀は、京都から公家をまねき、蹴鞠
や連歌の会を催すなど、
古い体質の教養人、まさに今で言うまじめな公務員であった。
しかし、ちょっと違うのは、尾張の勝幡という港湾都市を治め、財力に恵まれていた。
その経済力を背景に、着実に力をつけていた。
しかし、ここからが父・信秀は偉かった。金持ちの2代目(信長)は、
生まれながらの殿様で、世間知らず、時代は乱世、
このままでは、織田家の将来は、危ういと思ったのだろう。
そこで、信長には、自分や
世間一般とまるで違う教育を、あえてしたのではないか。
当時の教育方法は、都から有名な高僧や学者を招き、
城の奥座敷に一日中閉じ込もって、中国の古典や軍学、蹴鞠や連歌などの一般教養などを詰め込むというのが、一般的だった。
ところが、信長には、学問の詰め込み教育や蹴鞠、連歌などの教育はいっさい行わず、
野外授業、実践教育とでもいうのだろうか、一日中、城下に出て、
庶民の貧しい生活、荒廃した農村、厳しい現実社会等を見せながら、山や川でのガキ大将遊びに打ち
興じさせていた。この実践教育が、後の信長を作ったのではないか?
しかし、よく、暗殺されなかったものだ。運も良かったのだろうか、それとも、だいぶ誇張された信長伝説なのだろうか?
たぶん、「織田の若は、"うつけ"だから、
こちらは、将来安心だ。」と、回りの豪族から
ほんとうに、笑われていたのだろうか? その後、ガラリと変身して、
笑ったものは、みな滅ぼされたということなのか・・・納得・・・。
(よく、信長は、"うつけ"を装っていた。芝居だったという人があるが、それは、否定する。このとおりだと思う。
"うつけ"を装ったのは、その後、斉藤道三と会見した時だけだ。と考える。)
ただ、側近の重臣たちは、信長の並外れた器量を、
「この殿なら、この厳しい時代を生き抜いていけるにちがいない。」
と、確信していたはずだ。近くで、見ていれば、その人の
本質など、すぐに、分かるはずだからだ。
そうでなければ、今川義元を、桶狭間に破った戦いなど、
誰もついていきませんよ。
たぶん、この頃には、信長は、家臣の間では、
絶対的な信頼を勝ち取っていたにちがいないと思うのだ。
たぶん、「義元の首はとらなくても、絶対負けない。勝たないまでも、せめて、
今川軍を追い返せる。」
という自信は、家中にあふれていたのではないか。このあたりは又、別の機会に・・・。
3.重臣にして守り役・平手正秀
平手正秀といえば、信長の余りの軌道を逸した振る舞い(前述の"うつけ"の振る舞い)を
いさめる為に、切腹したと伝えられている守役である。現に、あの信長が正秀寺を建立しているのだから
、よほど感謝?したのだろう。そして、その後の振る舞いは、ガラリと?変わったのだろう。たぶん・・・・。
一方で、主家をもしのぐ、経済的、実力者であった正秀を、信長が暗殺した・・・、という説も
ある。その後の歴史に、信長の家臣で平手の名前は、現れてこないのも確かに不思議だ。
いずれにせよ、良し悪しにかかわらず、この正秀という守役が、その後の信長の人格形成に影響を与えた
キーマンの一人であることは、間違いなさそうである。
前に述べた、信長への実践教育も、案外この平手の爺の発案かもしれないし、わざと、
誤った教育を信長にして、信長を"うつけ"にしてから、主家をのっとる魂胆だったのかもしれない。・・・??
結果は逆で、信長により返り討ち・・・だったりして!!!
この一件で信長は、その後の修羅の道の覚悟ができたのかもしれない・・・。
正秀寺の建立は、その決意の表れだったりして・・・・。
4.美濃の国主・斎藤道三
信長の戦国乱世の生き方、軍事面、経済面すべての生きたお手本だったのが斉藤道三であろう。
ご存知のとおり、
道三は、京都妙覚寺の法蓮坊、その後還俗して、
一介の油売りから身を起こし、松波庄五郎−山崎庄五郎−西村勘九郎−長井新九郎−
斉藤利政−斉藤道三と、次々と名前を変えながら、主を暗殺又は毒殺等、
およそ、今の世ならば大悪人だが、当時、家臣や領民は、強い主でなければ国は保てず、領民も安堵できない
、当時の感覚では、必然的な謀反は、正義なのだろう。
反面、他国の古い体質の国主からみれば、やはり悪逆非道な、"
まむしの道三"と恐れられた・・・ということだろう。
信長はこの道三を、生きた先達として尊敬し、彼の政治、経済、軍事、特に鉄砲や長槍戦法、楽市楽座、町造り、街道整備等
徹底的に研究し、さらに創意工夫を施したに違いない。
5.沢彦宗恩(たくげん・そうおん)
信長という名前は、沢彦がなずけ親である。
妙心寺派の禅僧で僧とはいっても、政治や軍事にも明るい、
オールマイティの政治顧問であった。
そもそもは、平手正秀が亡くなった時に、
正秀寺の開山として、京から
沢彦を招いている。以来、ことあるごとに、師と仰ぎ、
この乱世を、いかに生きていくべきか、"帝王学のいろは"
の薫陶を受けたのだろうが、信長は、子供の頃から、社会の現実をこの眼で見てきた経験から、その理解度は、
並外れて優れていたのだろう。信長には、人の意見を聞かない独裁者というイメージがあるが、当初は決してそんな
ことはなかった。この話は、別の機会に・・・・。
ちなみに、美濃の稲葉山城を攻め落としたあと、この井ノ口という地名を、
中国の故事にならって岐阜と名づけたのも、沢彦。
又、この頃から信長は、手紙に「天下布武」の
印鑑を使用しているが、この発案も沢彦である。
以来、トップが分かりやすくて、明解な目標(ビジョン)を
定めたのだから、下は草履取りに至るまで、
織田家中の士気は、大いに上がったのであった。
以上の要素があいまって、天才信長は必然的に作られた。珍しく、明解な答え
だと思うのだが・・・。
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