☆豊臣秀吉の前半生って不思議ですよね?☆
豊臣秀吉といえば、尾張中村の貧しき農民から一代で身を興し、織田信長の"
ぞうり取り"から"天下人"迄昇りつめた、
そのサクセスストーリーは、太閤記等で、すっかりおなじみ。
しかし、太閤記(甫庵太閤記、角川太閤記、太閤素性記等)は後の世の
作品で、史実とはだいぶ違うらしく、けっこう"謎"が多い。
まあ、誰でも調子にのって、
つい筆がすべって、おもしろおかしくの作文は、
多少はやむを得ないですよね。
その中で、いくつか個人的に気になる点をピックアップして推理し、
その実像を探ってみたい。
秀吉(藤吉郎)は、本当に貧農の出身なのか。
サクセスストーリー的には、貧しき農民から天下人という方が面白いので、
ことさらに異議を唱えるつもりもないし、歴史を左右する重大な問題でもないのだが、・・・
ちょっと変だと思いませんか。
出自についての一般的な説は、秀吉の母は、"なか"。父は、かつて織田信秀(信長の父)の
足軽で、(木下)弥右衛門。戦で足にけがをして、
尾張中村に帰農したが、その後、死亡。後添えに、元茶の湯で信秀に仕えたという筑阿弥
(ちくあみ)が入り、継父となる。
その筑阿弥と折り合いが悪く、家を飛び出して、針売りなどをしながら各地を見聞したり、
遠江 久能城主の松下加兵衛(後に、秀吉に取り立てられて
大名になったのだから、秀吉が恩にきた人物だったようだ。)
に仕え納戸係りになったり苦労したが、これらの経験が、後に、信長の家臣となった時に、大いに役立ったことは、間違いない。
秀吉の姓(苗字)の謎
木下の姓については、諸説ある。
@「木下」という姓は、松下加兵衛の「松下」から取って自分でつけた。
つまり、”松下―公=木下”
A妻”おね”の実家が”木下”で、とりあえず
”木下”の姓を借りた。
”おね”は、浅野家の養女で、実家は木下家。
B先祖代々、木下だった。父は木下弥右衛門。等の諸説がある。
もし、秀吉が”木下”という姓を自分でつけたなら、秀吉は、たいへん学門があった。
つまり、インテリだったという可能性がある。
なぜなら、”松下―公=木下”という発想もすごいが、一見、
”木”とは、何の野心も感じられない静かな”字”である。ところが、
”木”から|を引いて―にすると、”天”になる。
つまり、”木下”には・・・”天下”
という文字が見えかくれするのである。すると、
秀吉は、当初から”天下”を意識していた。しかも、農民の子が?・・・と、いうことになる。
ありえないよね。それとも、偶然ですかね・・・???
藤吉郎という名前も、農民にしては、垢抜けた不思議な名前だ。もし、武士なら、藤という字から藤原氏が見えてくるものだが・・・。
しかも、父は、弥右衛門ですよ。何のつながりも感じられない。ふつうなら、せいぜい”弥吉”でしょ。
又、弟 秀長の幼名、小一郎or小竹(こちく)とも、ちょっと異質な気がしませんか・・・?(小竹は、筑阿弥の子供という説もある。)
後に、織田家重臣の丹羽長秀と柴田勝家の
ご機嫌取りもかねて、羽柴と名乗ったことからも、(この発想もすごいよね!)
「木下」は、先祖代々の姓ではないという説が主流のようである。はたして、そのとおりだろうか?
意外と、先祖代々木下で、妻おねの実家とは、同族であるとか、
農民出身とは、藤吉郎独特の深謀遠慮で、信長の注目を集める為の策略だったのではないか。(今でいう自虐ネタ?)
一度、信長の前で、農民の子と言ってしまったので、後から訂正できなくなったのではないか。
現実問題としては、貧農の出身では、当時としては、一廉の武士が、誰もついてこないと思いませんか?
たぶん、農民出身というのは、敵将を凋落する時に、
「信長様は、私のような農民の子でも家臣に取り立ててくれました。
しかも、働きしだいで出世できるので、○百石も貰っています。」
と言えば、敵方の封建的な領主に不平不満な豪族も、そんな信長なら私も信長の家臣に取り立ててもらおうという気になりますよね。
そんな時の方便が、スタートだったのではないか。
当時の秀吉は、将来自分が、天下を取るなどとは、夢にも思わず、
その日、その日を「いかにしたら信長に気に入られるか」このことだけが生きがいだったのだから・・・。
そう考えないと、どうしても次の疑問が解決できないのである。
読み書き、そろばんの謎
私が疑問に思うのは、秀吉は、多少は学問とまでは行かなくても、読み書き・
そろばんぐらいは、
できたのではないか、それなら貧農はありえない。(事実、秀吉自筆の手紙は多数残っている。)
最低でも、庄屋や名主といった、
武士なら最低でも、土豪の子息ぐらいの多少は、
勉学の”勉”ぐらいは、身につけられる身分、財力
又は、商人の子でなくては、どうもつじつまが合わないのではないか。
又、秀吉は針売りの行商をしたという説があるが、それなら、なおさら"そろばん"ができなくては、
おつりの計算さえできないではないか。藤吉郎は子供のときに、寺に小僧として入れられた。
と、いう説もあり、読み書き、そろばんは寺で教わったのではないか、という人もあるが、
それにしては、あの頭の良い秀吉が、
お経が得意だったという話は、ないよなあ〜・・・・?
後日、そのお寺に感謝して、多額の寄進をしたという話もないよなあ〜・・・・?
ふつうに考えれば、秀吉は、商人の出か、
商人の家で、働いた経験があるのではないか???
一歩も、二歩も譲ったとしても、”秀吉のような新発想人が、突然変異で生まれた。”など、有り得ないのではないか。
どう考えても、「実学問の先生がいたはずだ。それは、誰か?・・・それでは、秀吉の身分は・・・?」と、思いませんか?
”なか”の後添えに、筑阿弥が入った謎
母、”なか”は、絶世の美人だったのか? 残念ながら、そんな話は、無いよね。
なぜ、筑阿弥は、”なか”の後添えになったのだろうか・・・?。
純粋な恋の話なんだろうか? それとも、何か別の理由があったのだろうか。
筑阿弥は、茶の湯が趣味の教養人、
とても農作業を手伝ったとは、
思えない。どうもこの二人は、不釣合いな夫婦に思えるのだが・・・?又、その後、忽然と消えたのはなぜ?
ほんとうは、釣り合いの取れた、お似合いの夫婦だったのではないか。
大胆な仮説ではあるが、筑阿弥の目的は、”なか”の
財力?だったのではないか。
こう考えるとつじつまが合う。
ということは、”なか”は、ただ者ではない。事実、秀吉が、針売りの行商に出た時に、”なか”は、一千貫の銭を元手として渡したという
話もある。(但し、この話は、ちょっと、あやしい?・・・なぜなら重すぎて、一人では、持てないから。)
ついでに、”なか”の素性を知る手がかりの一つが、
加藤清正かもしれない。清正の母・伊都は”なか”の従姉妹(一説には妹)
であり、秀吉とは、血縁関係にあった。一般的に、加藤氏といえば、斉藤氏と同じく藤原氏の流れで、
美濃にも多い氏らしい。又、
加藤清正の画像に、桔梗紋の鎧姿を見た。桔梗紋といえば、明智氏などの土岐源氏をイメージさせるのだが・・・。なぜ?
いずれにせよ、秀吉の母方の系譜も謎ではあるが、名家・名門又は商人の可能性も否定できないのではないか。
関係ないかもしれないが、信長の父信秀の代に、織田家と関係の深かった熱田神宮の豪商に、加藤順盛(よりもり)という名をみつけた。
・・・・・今後の研究課題・・・・
千成瓢箪の謎
後に、秀吉は、馬印に瓢箪をつかっている。この意味は何だろう。たぶん・・・
@ひょ+うたん・・・多くの敵を討たん!
多くの手柄を立てて、出世するたびに、数を増やしていこう⇒千成瓢箪
Aひょう+ひょう・・・いかなる敵にも動じない”ひょうひょう”とした態度
B六つの瓢箪で、無病息災?(掛け軸じゃないよ!)
C信長の小者となった時、信長の腰に下げた瓢箪が忘れられないとか、信長からの褒美に瓢箪をもらったとか、何か特別な思い出
(信長と秀吉だけに分かる思い出)があったのかもしれない。いづれにしても、深謀遠慮というか、先輩の重臣たちに気を使って
”農民くささの演出”は、かかさないよね。頭は、いいよね。
藤吉郎は、小六や信長と、どうやって知り合ったのか?
それと、もう一つ、
後に、どうやって、蜂須賀小六と知り合い又、
どうやって信長の家臣になったのかということ。
その辺がどうも曖昧で、"しっくり"こない。
どこかに、仲介者がいたのだろうか。
そもそも、親兄弟、親戚、右も左も信用できない時代に、どうやって農民の子と武士が知り合い
、信用しあえるのだろうか。信長の廻りには、護衛の武士もいたろうし、へたに近づけば、
無礼討ちに合ってしまうではないか。但し、仲介し紹介するものがいれば、話はちがう。
松下加兵衛が仲介者だったら・・・ちょっとありえないし、逆に他国者では、絶対無理だよ?? でも、
もう一人誰かいないのだろうか。
又、仲介するにしても、その人との信頼関係は、どうなの? という問題が、常に残るのだが・・・
ちょっと整理すると、
@蜂須賀小六とは、矢作川の橋の上で知り合ったという話もあるが、当時、矢作川に橋はなかったので、
ありえないらしい。
A信長記にある、藤吉郎が、生駒氏の館に出入りし、小六に出会ったり、吉乃(きつの=信長の妻妾で信忠の母)
の紹介で、信長の家来になる話は承知しているが、信長の家来になった後に、お供でついていったのなら話はわかるが、生駒館に先に
転がり込んだ・・・これは、どうも切羽つまった、つじつまあわせのようで、変だと思う。
B蜂須賀小六が野武士や夜盗の頭目というのもあやしいらしい。
若い頃には、川並衆を率いて木曽川の水運業を行うことで利益
を得ていた美濃の蜂須賀郷を根拠とした立派な国人領主で、藤吉郎とは格というか身分がちがう。
C初め、蜂須賀小六の子分?だった藤吉郎が、立場が逆転したのも、何か大きな理由がありそうですよね。
立場が逆転したのではなく
初めから、藤吉郎の方が身分は、上、少なくとも同等だったのではないか・・・?
どうも秀吉は、この辺りのいきさつ(信長や小六との出会い)をわざと、隠しているように、思いませんか。
歴史に残したくない何か、又は故意に、ストリーを自分で作り変えた?・・・何かが有りそうですよね。
ちなみに、明智光秀が信長に仕官するきっかけとなった時、
信長に足利義昭の書状を持ってきた時には、
信長の妻である濃姫(帰蝶)の縁を利用している。
光秀と濃姫は母親”小見の方”を通じ血縁関係にあった。
一説には、濃姫の母は、
明智氏で、従兄妹(いとこ)同士という説もある。
つまり、光秀も、確かな仲介者があったからこそ、信長に仕官できたのだ。
考えてみれば、当たり前で、能力だけで、他国者をどんどん近習に取立てていたら、
”本能寺の変”の前に、他国の間者(スパイ)に暗殺されてしまうよね。これと同じことが秀吉にも言えますよね。
・・・ちょっと、いっぷく・・・
大河ドラマの中で、信長が馬にのり駆け始めると、
その後ろを藤吉郎が死に物狂いの
形相で、一身腐乱に追いかけるシーンが頭に残っている。途中で信長が疲れて馬を休めていると、
藤吉郎は、休まずに馬に水を与えて世話をしている。又、信長が馬で走り出すと、藤吉郎が又、
後を追って懸命に走り出す。
昔、友人が、藤吉郎は忍者だと言った。
馬の速度が時速40〜50qとしても、
マラソンランナーでも、約40qを約2時間だから、時速約20q、とても、馬にはとうてい、追いつかない。
だから、藤吉郎は忍者だというのだ。もし、そうなら、私もその他いろいろな疑問が払拭できるのだが・・。
でも、それも、ちょっとなあ〜。たぶん、藤吉郎のすごさは気転のすごさ、先を読む
段取り思考の天才なのだ。
信長が馬に乗ったら、その方向からどこへ行き、
どのあたりで休むかをいち早く計算して、獣道を先回り
して、信長が到着するのを待っていたのではないか。そろそろ帰ると思ったら、城に先回りして、
門前で待っていればいい。信長の性格なら、「よく、ここが分かったな〜サル! みごとだ!」
この気転が、気に入られたのではないか。
しかし、"気が利く"のも、"小賢しい"とは、紙一重だから、よほど
相性が良かったのだろう。
又、信長に気に入られた最大の理由は、かつて行商
をしていた時に見聞きした、各地の土地情報に、
精通していたからではないか。
秀吉は、たぶん西は京都から東は三河、駿河、
甲斐の国あたりまで行ったかもしれない。
後に、信長上洛後、光秀とともに京都奉行になっている。信長独特の公卿に対する挑発行為もあったのだろうが
、秀吉は、京都に行ったことがあって、意外と京都の一般事情に精通していたのではないか。
又、行かなくても、
各地の宿場で知り合った、行商人等から聞いた、
各地の動向、特に、例えば、
「京都は、かくかく、しかじか、
こんな具合だったとか、
隣国美濃の稲葉山城下は、かくかくこのとおりで、その地で、
長柄の槍隊や鉄砲隊何十人の訓練風景を見た。」とか、
「駿府城下のうわさでは、今川義元は、胴が長く足が短くて、馬に乗れない。」とか、
信長が、目を丸くして、聞き入るような又は、腹を抱えて笑えるような、そんな話を、
たくさん知っていたのではないか。
信長自身が、尾張の土地を
離れるわけにはいかないのだから。他国の情報、特に実体験の情報は、何よりもほしかったはずだ。
これなら、話は、良くわかる。さらに、想像を膨らませれば、信長と秀吉の出会いはもっと古くて、信長の命令で各地の
事情調査に、行っていたのかもしれない。
しかし、この時代、"小者でありながら"、又は、"いくら、小者とはいえ"、よく
信長の目に止まったものだ、
これが、人と人との理屈抜きの出会いの不思議、
まさに、運命の出会いだったのだろうか。
・・・今日の結論・・・
もう一人、近親者で"なぞ"の人物がいる。
それは
筑阿弥という継父、かれのその後が、
よくわからない。忽然とその消息が消えている。なぜだろう?
本当に秀吉と仲がわるかったのだろうか?
案外、
この筑阿弥が曲者で、実は、秀吉
と二人三脚のサクセスストーリーだったのではないか。
実は、この筑阿弥の阿弥とは、時宗の号で、阿弥号を称すると世俗を離れたことになり、
身分制に縛られる事なく貴人とも席を同じくすることができるらしい。
又、この筑阿弥
は、信長の父、信秀の同朋衆の一人であったとする説もあり、もしかすると、織田家中で
特殊な勢力やコネクションがあり、信長の身近な人に
息子の就職を依頼、斡旋したのではないか。
もしかすると茶の湯好きである信長の師の一人は、筑阿弥だったのではないか。
その自由な立場を利用して、京や美濃、三河、駿河等、隣国の事情通であったり、知人も多く、
さまざまなコネクションをもっていたのではないか。
さらには、尾張周辺の豪商、大家や豪族、例えば、生駒氏とか、蜂須賀小六とも
旧知の中だったりしたらどうだろうか、けっこう秀吉のために、裏で大活躍したのではないか。
後日、本人は名前を変えて生き延びて、
誰もが知っている、"あの人"に出世
してたりして・・えへへ・・・。などというのは、考えすぎですかね・・・・。
こんな風に、違った角度から、秀吉を洗いなおすと、おぼろげながら違う秀吉(秀吉ファミリー)の姿が見えませんか。
次のストリーは、現在構成中、近日公開予定。
歴史の謎解きメニューに戻る