★石田三成は、合戦が苦手って本当?☆



(1)前書き
 石田三成は九州征伐や朝鮮出兵時等での兵站奉行や、検地等の経済政策での官吏としては、有能ではあるが、
「軍兵を率いての合戦の駆け引きは、苦手であった。いわゆる武将としての才能はなかった。」
という評価がある。はたして、そのとおりだろうか?私たちは、歴史の結果を知っているというハンデがある。
さらに悪いことに歴史小説や、大河ドラマで、三成のイメージがすっかり、インプットされてしまった。確かに、石田三成は、関が原における敗軍の将である。
まず、この固定概念を、捨てさらなければ、三成の本当の姿はみえてこないのではないか。さらには、三成とともに戦った三成の家臣や、西軍の将たちは、命を懸けて供に、戦ったのである、端的な結論は、気の毒ではないか。そんなところから、今一度、三成を又、三成の戦略眼の有無を検証してみたい。

(2)石田三成の武将としてのデビュー戦について
 話はちょっと遡って、関が原の10年前、天正18年(1590年) 北条氏政の小田原征伐時の北条方の支城、武蔵の忍城(おしじょう)攻めに、当時31歳石田三成率いる豊臣方との攻防戦から話をはじめたい。なぜなら、これが三成の関が原の合戦以前の唯一の武将としての戦いだからである。

 小田原征伐時に、石田三成は、総大将として、長束正家、大谷吉継、真田昌幸や、 浅野長政らとともに、北条方の関東の支城の掃討作戦を受け持ったのである。そして、松山城、岩槻城、鉢形城と、次々に城を抜き、上州の館林城を攻め、これを3日で開城させると破竹の勢いで、三万余の大軍をもって、関東の七名城の一つ、北武蔵の忍城攻め(現在の行田市)に取り掛かったのである。埼玉県行田市は、私の生家の加須市と近い。だいたい、加須市・騎西町・羽生市・行田市・熊谷市あたりが埼北地区で昔からの同じ生活文化圏で、静かな田園地帯である。



 そもそも、忍城は、利根川と荒川に囲まれた湿地帯にあり、水田や沼や水路に囲まれた平城で、大手門への道は狭く、左右は深田、縦横にはしる水路により橋も多く、 別名「忍の浮き城」とか水田の中に、ぽつりぽつりと見え隠れする白鷺に似て、別名 「白鷺城」と呼ばれていた。(白壁に囲まれた荘厳華麗な姫路城の白鷺城とは、意味がちがう。・・・分かるよね。)
 永正六年(1508年)連歌師宗長が、滞在した忍城の景観を、次のように書き残しているので、参考に。
「水郷也。館のめぐり四方沼水、幾重ともなく葦の霜がれ、二十余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたる。」
 初めて見る連歌師が、書き残した客観的な、文なので、簡潔で分かりやすい。
 この忍城は、過去にも、越後の上杉謙信に、大軍をもって攻められたが、深田に兵馬とも足をとられて、攻めあぐね、いまだかつて、一度も落城したことのない、ある意味、断崖絶壁の山城よりも、はるかに、攻めるに難く、守るに易し、難攻不落の名城であったのである。(ちょっと、おおげさかな?)

(3)忍城攻防戦のあらまし
 当時の城主成田氏長は、主力の精鋭部隊、約三百騎を率いて、小田原城に籠城していた。従って、留守を守るのは、氏長の妻や娘の甲斐姫と老兵や子供など、かき集めても、僅かに三百騎余りの留守部隊であった。氏長の妻は、なかなかの賢婦人で、「豊臣方の軍勢せまれり。」の報を聞くと、家臣を集めて、こう下地したのである。
「城下の領民にお触れを出し、米、麦、大豆、小豆、粟、味噌などの兵糧や、炭、薪、もぐさにいたるまで、敵方に渡さぬように、戦が終われば、きっと倍にして返すからと、百姓、町人、女や子供、僧侶に至るまで、人と物資のすべてを城内に入れさせよ。」
 この念のいった、お指図に、”あっぱれなる奥方のおはからい”と家臣も、納得し、これにより、難を逃れようと進んで城に集まった領民も多く、一挙に三千人余り、兵糧も、数万石に増え、2.3年も籠城できる量となるのである。
 日に三度、飯を炊き、女や老人で、各陣所に飯を配り、子供には、小旗を持たせて、兵の多きを装って、屋根や塀に登らせ、敵が攻めてくると、太鼓を叩いて知らせ、近くの陣所と協力して、敵を防ぐと申し合わせるのである。
 女城主に家臣領民一致団結し、堅く城に籠もったのである。寡兵とはいえ、坂東武者、藤原鎌足の末裔にして鎌倉以来の名家、成田家が、そう易々と、攻め落とされるものではなかったのである。

(4)甲斐姫あらわる
 6月1日着陣そうそう石田三成は、軍議を開き、
「寄せ手は大軍、城方は小勢、今の勢いで、四方より一気呵成に、攻め込むべし。」
これに対して大谷吉継は、
「忍城は”忍の浮き城”との異名をもつ難攻不落の名城と聞く、まずは四方を取り囲み、昼夜休まず奇襲して、弱きところを探るべし。その後、内紛、裏切り等の謀略を用いるべし」
 結果は、長束正家が三成案に賛成した為、いよいよ明日は総攻撃と決したのでした。吉継も、軍議に従い、自らの消極策から臆病者と言われぬように、
「明日は、先陣を」と申し出るのである。

 決戦の日、寄せ手の石田隊、大谷隊や浅野隊など、何度か力攻めを試みるが、城方の結束は固く、水郷地帯の地形を武器に、いたるところに小船を隠すなど、神出鬼没のゲリラ戦や、細い小道に、軍兵が伸びると、横合いから伏兵が突き崩し、又、寄せ手を城際迄、引き付けて、鉄砲弓矢で、応戦するなど、善戦したのでした。特に、成田方に、女武者が現われ、大いに士気が上がったのでした。
 烏帽子形(えぼしなり)の兜の緒をしめ、小桜緘の鎧に、猩々緋の陣羽織をまとい、成田家伝来の名刀「浪切(なみきり)」を腰に下げ、銀の采配を手に、金ぷくりんの鞍を置いた黒駒に打ち跨って、颯爽と現われた一騎の女武者有り。これぞ誰あろう、城主成田氏長が娘、みめ麗しき、十九歳の甲斐姫でありました。
 押したり、引いたり、自由自在の采配に加え、味方の一隊を間道より裏手に廻らせ、仮橋を落とし、退路を断って挟み撃ち、「右よ、左よ!」と石田方は翻弄され、ついには、馬ごと深田に追い落とされて、散々に打ち破られたのでした。


(5)真田隊敗れる
 又、数日後、今度は、八王子城から援軍に来た、真田昌幸、幸村親子が上州佐野の兵を先鋒に、なんなく、大手門近くの捨曲輪まで、押し寄せると、又しても甲斐姫が現われる。

                ("更新"すると・・・・・・・・・・・・行進します)


  すると佐野隊の中から、紺地に白く髑髏(どくろ)の旗指物の騎馬武者一騎、躍り出て、
「我こそは、後醍醐天皇の忠臣、児島備後三郎高徳が末裔、三宅惣内兵衛高繁なり。女将軍そこを引き給うな!ひっ捕らえて、我が妻とせん!」
と大音声(だいおんじょう)で名乗りつつ、長槍を小脇にかかえ、月毛の馬にて馳せ来る。と・・・・。
 甲斐姫、すこしも慌てず、かたわらより弓矢を取ると、キリキリと引き絞り、ひょうと放つと、矢はみごとに、三宅の喉を射ぬき、三宅惣内兵衛あえなき最後。
 甲斐姫も、凛として答えるは
「あっぱれなり、児島殿! おのが姿は、旗指物となりぬべし!」
 と、やんややんやの大喝采!。いつの間に現われたのか、捨曲輪の櫓や屋根には、鈴なりの鉄砲・弓矢の成田兵と、手に手に石や竹やりを持った百姓、町人たち、真田隊も「しまった、謀られたか!」と気づくも遅く。散々に打ち破られたのでした。

(すいません。調子に乗って、すこし脚色しました。しかし、このような事が、文化文政時代に書かれた、「成田記」にあるので、まるっきりうそではありません。が、成田家側の書物なので、そこは、割り引いて下さいね。以下、つづく・・・)




後半戦へつづく


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